皆さん、こんにちは。大津です。



ここのところ皆さんからたくさんのメッセージを頂戴し、ありがとうございました。


励みと学びを頂いております。


Aさんからメッセージを頂きましたので紹介します。



(以下引用)


大津さん

先日は、貴ブログへの私の投稿に対して取り上げてくださり、又ご丁寧にご回答くださり、ありがとうございました。

ヨミドクターの該当記事も興味深く拝見いたしました。

以下、感じたことを勝手ながら記しました。

現在の癌医療では、色々なケースが考えられ、近藤誠氏のような○×で答えを決めるような主張を真に受けることは患者にとっては危険であると解釈しました。

これらを突き詰めていくと、現在の癌治療ではまだわからないことが多いので、これがベストと100パーセント断言できる治療方法は存在しないというところに行き着くのではないかとも感じました。

このあたりの患者と医者とのとらえ方のギャップは大きいのではないでしょうか。

患者は一般的に、医療は現実よりはるかに進んでいるイメージを抱きがちかと思います。

そんな中、患者と医者の間でのコミュニケーション不足(両サイドの立場の違いや医者の時間不足などが原因)が、現在の医療では大きな問題であることも改めて感じました。またその問題原因として、医者の人格にも少々疑問をもちます。一般的に、医者になるには受験戦争に勝ち抜くことが求められ、いわゆる知識偏重の人間が医者になってしまうと、患者の身になって考えたりすることが普通以上に難しくなる場合も多いのではないかと思います。

また近藤誠氏が主張されていることには改めて以下のような感想を持ちました。

近藤誠氏の極論部分については、何が間違っているのかの指摘が今後もどんどんメディアに向かって広まればと願ってやみませんが、その一方で彼が指摘している、現代の日本医療の問題点については正しい部分もあると考えます。

たとえば、手術偏重主義はいかがでしょうか。

父(2010年11月に肺がんで死去)が、検診で肺がんが見つかった当初、治療スタートは外科からの「初期と思われますので、(病期 IAの確率が8割と言っていました)、手術で取りましょう」であり、担当の内科の医者からも、他の治療の選択肢などの説明はなく、ベルトコンベアのように当たり前のように手術台に乗せられて手術を受けた印象がありました。しかし、体を開けてみると、リンパ節転移があり病期は一気にIII B。

最初の治療が一番大事であると他の本でも読んだことがありますが、このスタート時点で、他の治療選択の説明はあるべきであり、また患者側もこの時点で立ち止まって考えるべきだったと今思えば少々後悔が残ります。

また抗がん剤なども標準治療の1つで、現代の医療ではどちらかというと、一様に積極的に行われているのではないでしょうか。近藤誠氏は、芸能レポーターの梨本さんや歌舞伎役者の中村勘三郎さんを取り上げ、抗がん剤や手術が原因で亡くなったと主張されていますが、その真偽は勿論わかりませんが、治療の選択肢としてまた予後などについて医者からきちんと彼らに説明があったのかは疑問です。

最後に、今後もし自分が検診で癌が発見された場合、どうなるのかを少し想像してみました。

これは、自分に素人患者として、ある程度治療について知識がなければ、また自分にとって信頼できる医者がいなければ、ショックに加え、混乱や迷いがより強い形で現れるのではないかと思います。

いざという時が起こる前に、できる範囲内で備えていないと、世話になる病院や治療の選択肢も自ずと狭まっていくのではないか。(父を見てこのようなことは少し感じました)

おそらく、手遅れでない限り、一般的には手術の流れになり、また抗がん剤投与にしても(抗がん剤を扱うプロの医者が日本には少ないと聞きますが)、そういった中で、何を使い、どこまで続けて、次に何を使うのか、そしてどこで抗がん剤自体をやめるのかなど、納得した形で進めていくには、やはり自分側の患者としてのある程度の知識、そして色々な医者がいる中で、信頼できる医者との出会いそしてコミュニケーションは必須と考えます。

以上こうやって自分が書いたことを振り返ると、やはり日本の医療に対しては、少なからずとも不信感を持っているのは否定できないようです。

ただ、今後も頂いたような知識を自分で少しずつ増やしていくことにより、正しく知ることも可能ではないかと思います。

大津さんの、緩和医療の姿勢が日本の医療にももっと反映されれば良いというご指摘はその通りではないかと生意気ながら同感いたしました。

ただ、現実として、自分が癌などの重大な病気にかかり患者となる日が、今後突如としてやってくる可能性もあるわけで、現在の日本の医療とのうまい付き合い方を今後も勉強していきたいです。


(以上引用)


Aさん、ありがとうございました。


> 患者は一般的に、医療は現実よりはるかに進んでいるイメージを抱きがちかと思います。


そうなのですよね。


「先生、”一発”で治るような薬を作ってよ」


患者さんから冗談半分でそう言われることがあります。


確かに、すべてのつらい症状を1錠を服用するだけで完全に緩和する薬剤はありませんし、抗がん剤治療においても、多くの場合は、治療の反復や副作用の負担などを要します。


魔法のような治療はなかなか存在しないわけです。


一方でテレビドラマの医者ものでは魔法のような腕を持つ治療医が描かれます。


フィクションだから良いわけですが、「私、失敗しませんから」と本気で言う医者がいたら危険ですよね。


テレビドラマを脚本化したのかというくらい、本屋さんには「これで治った」とか、そういう本が並んでいます。


つまり、それを支持する人がいるのです。


娯楽で楽しむ分には良いのですが、描かれるフィクションと願望に比して、現実は楽ではなく、だからこそ過不足なく医療を理解して頂くことが重要だと私も思います。


まだ人間の身体という精緻な構造物の全容が解明されているわけではなく、わからないことも多いです。


しかし「わからない」と伝えると、「この先生は大丈夫か?」という反応をされることがあるのは事実であり、かかる側もそのことに対する一定の理解は必要だと思います。


話は少しそれますが、医学に限らず世の中はわからないことが非常に多いです。


わからない、即、悪。


迅速に答えを出せ。


何かあったらすぐ反応。感情的に反応し、ネガティブな言葉を投げる。


とりあえず専門外でも何か言うことを求められて起用されているテレビコメンテーター。


いつから脊髄反射的な、あるいはやたらに早いことを良しとする風潮が深まってきてしまったのでしょうか。


単純化、善悪論、陰謀論が声高に語られ、熟考し、判断保留することが時として劣位におかれる時代。

「相手の身になって」も考えてみる、というような作業が少しだけ足りないのではないかと感じられます。あるいは相手の身なんて関係ない、考える必要もない、「悪いのは◯◯だ」というような安易な敵づくりも散見されます。


近藤さんもそんな時代のあだ花のように感じます。


極端なことを言えば注目してもらえる。


熱心な信奉者は、「出世を絶たれた英雄」だとか、「よく考える医療を提唱している(だったらもっと極論に陥らず、読者が過不足なくわかるように正確に記せば良い・・・と私などは思うのですが)」だとか、実態を超えて良く解釈してもらえる。


これは止められないですよね。


こうして注目を浴びて、有名になる・・・(そしてボロが出る)というような有名人は、しばしば散見されると思います。


わかりづらいことをさもわかったように思わせる、あるいは単純化した議論に落としこむ言論人は、私たちが注意して冷静にみていかねばならないと思います。


また何事も無理に結論をひねり出そうとせずに、しばらくじっくり考えるということも大切だと思います。



> 患者の身になって考えたりすることが普通以上に難しくなる場合も多いのではないかと思います。


どの世界にもおかしい人は存在します。


だからすべての医者が良いとは私は言いません。


けれども、「医者は自分や家族を診れない」と言われることがあるように、第三者として最良を判断するところから、冷静な結論が見いだされることもあるのは事実であり、患者さんやご家族の気持ちと同化することは必ずしも良い医療を約束しないのです。


冷静に、客観的に、と仕事に臨むゆえに、しばしば医師は冷たく感じられてしまうという側面があると考えます。


私は、医者になって最初は、人の身体に針を刺すことが「痛いのではないか」と躊躇されました。


しかし、それに対して何も思わないようになった時に、手の震えが止まり、技術が向上するのは不思議です。


「痛いのではないか」とわずかな躊躇がある頃のほうが「下手くそ」と罵倒されることもあり(私が100%悪いのですが)、躊躇がないほうが「巧いね」と喜んでもらえる。


Aさんが仰られる、医師が”患者の身になる”ことの難しさは、そのような仕事の特性と無縁ではないと私は思います。


だからこそ、どれほど経験を重ねていたとしても、もう少しだけと、患者さんやご家族の視点に切り替えつつも、一体化することなしに様々な視座から冷静に最良を考え、十分相談し、温かい言葉で伝える、ということが重要なのですが、大病院は忙しさのあまり少なからぬ人が殺気立っていることもしばしばであり、良識的・良心的な医師でも時間帯や状況によってはそれが難しいということも稀ではありません。


そのような大病院の特性を理解し、それでも少しでも患者の言うことに耳を傾けてくれる医師なのか、やっぱりどんな時でもコミュニケーションは成立しないのかを見定め、自分の希望や好みに合った医師と出会って頂ければと思います。


あるいは日常生活と同じで100%合う者同士が出会えるわけではありませんから、ある程度は片目をつぶりつつ、関係を築きあげてゆくことが、際限のないドクターショッピングに陥らないためにも重要だと思います。


正直、医師と患者さんは、私のように双方の立場の話を聴き、双方の立場もわかる人間として申すならば、誤解がよく生じていて、互いにもったいないと感じます。


簡単な、ちょっとした気遣いの言葉があればなと残念に思うことも少なくないのです。



過剰医療の問題は、近藤さんに限らず、これまで多くの論者によって述べられています。


私も抗がん剤治療のやり過ぎの問題は、私にとっての2番目の本から何度も述べてきました。


しかし、近藤さんのように「効果がありそうなものまで叩く」ことは、本当に過剰医療の問題をまじめに考えてもらうことを第一としているのかと疑問を感じざるを得ません。


けれどもそのような極論こそ広まってしまうことに、良識的な医療者は軽く絶望していると思います。


一般の方になるべく正確な情報を理解してもらい、それを元に良質なコミュニケーションを図ることが重要なのに、娯楽性に富む単純化議論や陰謀論、あるいは藁をもつかむ思いの時の藁のほうが、訴求力は高いのです。

新著『死ぬまでに決断しておきたいこと20』では、近藤さんのことや、それに類する跋扈している怪しい治療、効かない免疫治療の話などについても触れました。

被害にあわないためにも、一般書の世界では数的には圧倒的に劣勢ですが、心ある方々のところに声が届いてほしいと切に願います。



お父様のこと、心中痛み入ります。


私も兄のように面倒を見てくれた叔父を43歳で肺がんで失っており、ご家族としてのAさんの思いは十分理解できるものです。


実際に診療していませんので正確なことはわかりませんが、画像診断にも限界があり、手術前の病期診断と手術後の病理検査でわかる病期が異なることはしばしばあります。ⅠAだと事前に診断をし、手術をして初めてリンパ節転移が見つかり、あるいは病理検査の結果としてリンパ節転移が確認され、ステージがⅢBだと判明したのだと思います。


患者さんやご家族の立場からすると、「なぜ」と思うのが当然だと思いますが、これも現在の医療の限界がゆえの事象だと思います。残念なことですが、ここにも限界があります。


ただAさんが仰るように、「ベルトコンベア」のような流れに感じるようなことは減ってほしいと確かに思います。


重要なことは、十分に情報を集めそしてもらって、できる範囲で過不足なく理解し、悩む時間も確保され、そして自らが決断される、ということだと思います。



何ができ、何ができないのか。


何が科学的に正しそうだとわかっていて、何がわかっていないのか。


それを”患者としてのある程度の知識”を信頼できるソースから入手し、”信頼できる医者との出会いそしてコミュニケーション”を通して、忌憚なく相談する、Aさんの仰るように、それが重要なことだと思います。


Aさんのように捉えてくださる方々が増えれば、きっと現場はより良くなっていくと思います。

Aさん、メッセージありがとうございました。



それでは皆さん、また。
失礼します。