皆さん、こんにちは。大津です。







一斉に咲いて、おそらく一斉に去ることでしょう。



旧約聖書の中のコヘレトの言葉から。



何事にも時があり 

天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

生まれる時、死ぬ時

植える時、植えたものを抜く時

殺す時、癒す時

破壊する時、建てる時

泣く時、笑う時

嘆く時、踊る時

石を放つ時、石を集める時

抱擁の時、抱擁を遠ざける時

求める時、失う時

保つ時、放つ時

裂く時、縫う時

黙する時、語る時

愛する時、憎む時

戦いの時、平和の時


(以上引用)


コヘレトの言葉の成立は紀元前100年頃という説があります。


従って、既に成立していた仏教の影響を受けているという指摘があり、独特の無常観があり、東洋の―もちろん日本の―思想にも近く見えます。



私たちが桜を美しいと思うのは、桜が時を知っているように見えるからではないでしょうか。


私たちも、美しく生き、美しく旅立ちたいのです。


しかしそれはけしてたやすいことではありません。


時を知ることも難しく、知っても受け止めるのは容易ではないからです。



「薔薇には桜花の持つ簡素な純粋さに欠けている。

それだけではない、薔薇はその甘美さの陰にトゲを隠し、執拗に生命にしがみつく。

まるで死を怖れるがごとく、散り果てるよりも、枝についたまま朽ちることを好むかのようである。

(略)

私たちの愛する桜花は、その美しい装いの陰に、トゲや毒を隠し持ってはいない。

自然のなすがままいつでもその生命を捨てる覚悟がある。

その色はけっして派手さを誇らず、その淡い匂いは人を飽きさせない」

(新渡戸稲造『武士道』)



桜は樹上に朽ち果てることをよしとせず、さっと風に身を委ねて地べたに達し、いつしか消えてゆく。


咲く時、散る時

輝く時、託す時

現れる時、去る時

「時」を知り、それを己が制御していることに、絶対的な長さとは関係のない価値を見出してきたのだと思います。


人も、適時から早まらず、しかして遅れずに、時を捉え、また時の支配者となり、生きて死ぬことができれば、満足も変わってくるかもしれません。



ある臨終の床。


夫は右に。

娘は左に。

両手をしっかりと握られて逝った女性の姿。


人の間に生まれ

人の間に死ぬ

だから人間と呼ぶ

そんなことを思いました。


最初の泣き声を上げた時。

誰もが自分のそんな日のことを忘れてしまっていますが

私たちは母や、医師や、助産師や、時に父や、

そんな人の間に現れ、最初の声を上げたのです。


人の間に生まれ、人の間に逝く。人間として生きること。


桜も一輪が咲き散るのではなく、桜の花びらの間に生き、逝きます。

まさしく桜は散り方上手ですが、それは人の散り方上手の姿とも重なるものであり、一つの手本と見て取ってきたのかもしれません。


また、はらはらと飛ぶ花びらを風がやさしく受け止めてくれることを願いながら。


週末は暖かくなるそうです。


皆さんもお花見、いかがでしょうか?


それではまた。
失礼します。


追伸1 本日ヨミドクターの連載が最終回です。


専門家に聞きたい!終末期と緩和ケアの本当の話


私たちは人生を必ずクビになる


皆さん、ご愛読ありがとうございました。

また連載を契機に、こちらのブログを知ってくださった方もありがとうございます。

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


追伸2 本日読売新聞の夕刊を良かったらご覧ください。