皆さん、こんにちは。大津です。



今週発売の『週刊現代』2月21日号183ページに記事が掲載されています。







「寿命」の研究、という特集の中で、様々な方が考える”寿命”について述べられた記事です。



良かったらご覧になってみてください。




また今月”決断”にまつわる本が出るので、「皆さんの決断」について、良かったら教えて頂きたく思います。


ご家族をお家で看取ることにした。


悩んだ結果、「楽しく生きる」ことを最優先することにした。


支えられてきた存在を、今度は自分が支えようと思った。


いろいろあると思います。


皆さんが人生において為した”決断”をメッセージで教えてください。


また一部をブログで紹介させて頂きたいと思います。



自分にとっての大きな決断は緩和医療医になろうと志したことがひとつあると思います。


京都にあるホスピスが私のことを採用してくれて今年で10年になります。


地縁がない京都に赴くのは、全く不安がなかったといえば嘘になりますが、それでも新しい分野を勉強できることの喜びのほうが大きく上回っていました。


「まだ若いのに・・もっと学ぶべきことをしてからでもおかしくはない」


「なにかホスピスで習得できる技術はあるの?」


「名乗れば明日からホスピス医なんて言われているけれども(資格制度もないけれども)大丈夫なの?」


もともといた病院では、そう言って、大丈夫? と心配もされました。ためにならないんじゃないのとはっきり言われました。


若い緩和医療医が今と異なって少ない時代でした。


「先生が好きなことをやれば良い」


一番の恩師は、まったく反対もされず、笑顔で背中を押してくれました。



患者さんとの別れはこたえました。


70代の多発性骨髄腫の女性は、「せっかく先生に慣れたのに・・」と悲しいお顔をされました。


何も言えませんでした。


たくさん言いたいこともあったと思います。


ずっとローテーターの(1年しかいない)先生が担当だった彼女は、「先生とは、はじめて複数年契約ね」と喜んでくれていたからです。


彼女はおそらく、不平や不満の声をグッと飲み込まれたと思います。納得のいかないお顔を一瞬されましたが、しばらく後お顔をほどかれ、微笑まれました。


「私も達者で生きるから、先生もお達者で」


しっかり握手をして別れました。


彼女はその後恩師のもとで療養をまっとうされ、数年後旅立たれました。穏やかな最期であったそうです。


彼女に今の自分の技術を用いて緩和することはもうできません。他の、同じような状況の患者さんを、私が習得した技術を用いて支えることで、恩返しにしたいと思っています。



ある患者さんは、転居後も埼玉から神奈川に通ってくれていました。


「たまに先生の顔を見に来ると、元気になりますよ」


おだてられて、その気になりつつ、申し訳ない、早く近くの病院を紹介せねばと思っていました。


彼は「そうですか、京都に。それは素晴らしいことです。頑張ってください」


外来でそう私を励ましてくれました。


「京都じゃあもう通えませんね。それでは胸を張って言えますね。・・紹介状をお願いします」


次の先生も(は?)、長く付き合ってくれる先生でありますように、そう願って書いた文字はいつもよりさらに筆圧が高めでした。



そうやって快く送り出してくれた方々のおかげで、今の自分があります。


10年前の決断で、やはり大きく物事は変わりました。


皆さんにも人生においてそのような決断の時と「決断」があったと思います。


また良かったら教えてくださいね。



それでは皆さん、また。
失礼します。