皆さん、こんにちは。大津です。



ヨミドクターの記事『がん患者だって「働きたい」』


について、~ロッキングチェアに揺られて~さんがブログで触れてくださっていますが、実際に体験されている方の言葉として学びとなりましたのでご紹介します。



2015.1.20 直球ど真ん中!~がん患者だって働きたい!


(以下転載)


 さて、どこから書き始めようか、と思うほどあれもこれも頷くところばかりである。先生の文章の順を追って、なるべく対応する形で思うことを書いていきたい。

 罹患した時も再発転移確定した時も40代だった私であるが、既に五十路を超えて3年が経つ。この年齢で再発進行がんであることを明らかにして、今以上の就職口を見つけるのはまず無理だろうと重々承知している。

 誰にとっても仕事は決して楽なものではない。ひたすら地味な積み重ねが殆どだ。言ってみれば、自分の自由な時間を切り売りしてお給料を頂いているわけだ。そして、ご褒美があるとすれば、年末に私が記事にしたような20年ぶりのメールだったりする。けれど、そうした本当に小さなご褒美こそが仕事を続けていられる原動力、醍醐味であるとも思う。もちろん綺麗事ばかり言うつもりはないし、仙人ではない(タイの仙人もいいかもしれない、とヨガスタジオのルーシーダットンクラスには細々と通っているけれど)から、霞を食べて生きて行くわけにもいかない。口に糊するために働くことは必須である。更に今の私にとっては治療費を自分で捻出する為、というのも大きい。

 この10年の間、特にエンドレスの再発治療を始めて7年の間、仕事を辞めることなく働き続けることが出来て良かった、と思うことは一度や二度ではなかった。先日のお友達のお別れの式でご遺族の弟さんが、知識欲に溢れ、自らの職務に忠実だった彼女が、上司から「(君は)もう来なくていいよ」と言われなかったことが姉の大きな励みになっていた、とご挨拶されていた。本当にそうだ、と思う。自分が役に立てていること、自分が必要とされていること、それを実感出来ることがどれほどの力になるだろう。それが家と病院の往復だけの生活になったら、と考えると本当に切ない。24時間、365日全く働けないほどの不調であるわけでない。治療により辛い幾日か、あるいは数週間かをやり過ごせば、十分仕事をする意欲も能力もあるのに、問題外、と全面否定されてしまうこと、辞めざるを得なくなること、は、ずっと仕事をして生きてきた人にとって絶望以外の何物でもないと思う。

 私も休職中家にいた時は、どうしても思考がネガティヴになり、負の螺旋に陥っていくのが判った。考える時間がたっぷりある、ということは病とともに生きる上で決してプラスにだけ働くことではないのだ、と身をもって知った。だからこそ、今も気付けばどんどん予定を詰め込んで、目一杯忙しくしている。考えることから逃げているのかな、と苦笑いすることさえある。少なくとも仕事をしている時には病気のこと、予後のことなど必要以上に余計なことは考えなくて良い。そして、人のために役立っていると実感出来るわけだから、こんなに幸せなことはない。

 おかげさまで私なりに、とても良い生活を送ることが出来ている。そのことを実現させてくださっている職場関係者の皆様、病状をうまくコントロールしてくださっている主治医をはじめとした医療チームの皆様に改めて感謝したい。

 先生も書いておられる通り、最近がん患者の就労について、テレビでも新聞でもしばしば取り上げられるようになったと思う。だんだん他人事ではなくなっているのだな、という思いを強くする。もちろん、望む人全てが仕事と治療を両立させていける社会が実現出来ればそれが理想だけれど、まだまだ道が険しいのも事実だろう。こう書くと、お前は公務員で恵まれている、職住近接で暇だから務まっているだけだ、偉そうに言うな、とおっしゃる方もおられるかもしれない。けれど、真剣に仕事をした経験のある人ならば仕事は暇が幸せだ、などとは決して思わない筈だ。仕事をする人間にとって暇であることは辛いことではないだろうか。少なくとも私は暇だったら苦痛に苛まれるであろうと思う。

 お正月に旅立ったお友達も10月の半ばまでは第一線で激務をこなしておられた。そして、11月末迄年休を取り、12月はなんとか在宅勤務で繋いで、新年から休暇がリセットされたところでまた仕切り直しをしたい、と思っていらした。

 実際にがんは、末期といわれる病期でも、最後の最後まで働くことが出来る病気であるのは間違いなさそうだ、と思う。彼女は医療用麻薬治療もされておられたけれど、実に上手にコントロールされていて、私がお目にかかった(その後10日で旅立たれたのだけれど)時まで、判断力も性格も元気な時の彼女のままだった。もちろん、先生が書いておられる通り、何事にも個人差は当然あるのだろうけれど。

 一方、私のような進行がん患者を受け入れてくれている今の職場には、感謝しても感謝しすぎることはない、と思っている。これ迄7年間という長期に渡り再発治療を続けてきた中で、薬のチェンジのタイミングで緊急入院したり、酷い副作用が出現し、いつも通りの成果が出せない日も少なからずあった。けれど、病を抱えたことによって、かつてブイブイ言わせながら仕事をしていた時には考えられなかった優しく穏やかな気持ちが、ごく自然に湧きあがって来るのを感じることがしばしばだ。誰か困っていそうであれば、配慮してあげる、ではなく自然に手を差し伸べたくなる、そんな気持ちになるのが不思議でさえある。

 そう、私は“乳がんステージ4で全身に多発転移があり、近い将来、間違いなく死んでしまう可哀想な患者”ではない。これまでどおり仕事も趣味も欲張って、言ってみれば更に欲張ったことに“しぶとく治療を続けている”という○○○○個人なのである。

 同じような境遇のがん患者、あるいはそれに限らず、働きたいと希望する誰もが働ける世の中、小さな子どもを育てるお母さんも、ハンディキャップを持って生まれた方も、皆がそれぞれの働き方で働ける、それがバリアフリーな世の中なのではないだろうか。そういう社会に一日も早くなってほしい、と切に思う。


(以上転載)


貴重なご体験のお話、ありがとうございます。



皆さんもきっと経験があると思いますが、一部の大作家さんを除いて、何かを書いて、著者に反応が感じられるくらいの反響を得るというのはなかなか稀なことなのではないかと思います。


例えば、論文を書かれる方もそうだと思いますが、一生懸命書き上げてようやく専門誌に掲載されても、「おそらくこの存在を知る人はほとんどいないのだろうな」というくらいの感触しか得られないことも少なくないのではないかと思います。


また往々にして、「共感できる」という場合と同様に、「まったく共感できない」という場合こそ、何かひと言伝えたい、と思う動機となることが多いのではないかと思うのです。


すると、結構厳しいご意見のみ頂戴することになったり。それはそれで非常に貴重な経験であり、感謝しています。



そのようなわけで、取り上げて頂けるというのはとても嬉しいことです。


もちろんペタ、いいね、メッセージ、私としてはすべて大変励みになっています。


ありがとうございます。



まだまだ現場にはたくさんの問題があります。


なるべく健康な方には知られていなかったり、時にはあまりぴんと来ないような話題であっても、しっかり取り上げていきたいと思います。


「最期まで耳が聴こえている」が少しずつ広がっているのと同様に、少しずつ変わるかもしれないからです。千里の道も一歩からですね。


それでは皆さん、また。
いつもありがとうございます。
失礼します。