皆さん、こんにちは。大津です。



今日は頂きましたメッセージを皆さんに紹介したいと存じます(メッセージをくださったKさんにご了解を賜って、一部に手を入れさせて頂きました)。


<以下メッセージ>


亡姉(享年64歳)がおととしの10月からすい臓がんと診断され、
闘病の甲斐なく、たった1年で昨年11月に永眠しました。
最後の半月ほどお世話になった某所のホスピスでは
悲しい対応をされ、姉の家族も私も打ちひしがれました。

亡姉の居たホスピスでは最初の面接時にぶっきらぼうに
「よくもってあと10日でしょうか。それでも良いですか?」
とホスピスの師長から尋ねられたそうです。
姉はそこから生きる気力を完全になくしてしまいました。

仕事で私が同席できなかったことが悔やまれますが、
遺族に死後、クレームをつけられないような対応だったのだろうと推察しました。

たぶん緩和医療従事者の良くも悪くも日々の慣れが
このような対応になっていくのか、あるいは
そうせざるを得ないということなのかと思います。

この慣れを何とか回避することはできないものでしょうか?

それを為すのは宗教なのか、思想的なものなのか私にはわかりません。
しかし、そのような何かがないと
死にゆく人に心を寄り添わせることは
非常に難しいことではないでしょうか。

ネットでは本人の死後にも生存しているかのようにTwitterやSNSで
亡くなった人を思い出せるサービスが登場しました。

しかし、そのような明らかなものよりも
私は姉がいつもかけてくれた電話の第一声を今もありありと耳元に感じられます。

それは姉と私が誠実に積み上げてきた日々があったからだと思います。
できるだけ正直にありのままを見せ合った人間関係の構築、
そのような無形の人との絆が最後には見えない財産として
身近な存在になるのではと思っています。


K(頂いたメッセージではご実名です)


<以上メッセージ>


確かに私たち医療者は、特に終末期医療の担い手は、第三者の死を数多く、時に日常のように経験します。


しかし逝く人にとってそれはたった1回のもので大切なものであり、ご家族にしてもかけがえのない存在の旅立ちでもあります。何千の第三者の死を経験したとしても、またご家族の、あるいは自身の死はまるで異なったものとして眼前に屹立することでしょう。


妙な「慣れ」はいけません。深い経験と知識があるけれども、まっさらな心で、また初心の心を持って常に接することは、終末期医療の従事者の変わらぬ課題であり続けているでしょう。


当ブログの読者さんにも良くない「慣れ」を回避するやり方を持っていらっしゃる方がいたらぜひお教えください。



それにしてもKさんが書いてくださった


「私は姉がいつもかけてくれた電話の第一声を今もありありと耳元に感じられます」


はハッとさせられる言葉であります。


ふとした瞬間に、そのような「生」(なま、あるいは、せい)の感覚が去来して、そしてまた不在を実感する。


生きているように感じるくらい、明確に頭の中では響くものの、その主が不在であることに気がつく時、人は喪失の厳しさを感じるものだと思います。



おそらく多くの方が一生懸命生き、支え、ケアをしているのが終末期医療の現場だと思います。


引き続きその現場にある皆が良いコミュニケーションに立脚した良好な関係を築け、困難の中に希望の旗が皆の携えた手にて打ち立てられることを願いたいと思います。


Kさん、メッセージありがとうございました。



それでは皆さん、また。
いつもお読み下さりありがとうございます。
失礼します。