【共通】
北海道に大好きな丘があります。
北海道は北海道でも、随分と遠い丘です。
最初の病院の頃は、完全主治医制で、受け持ちの患者さんの具合が悪くなると日本中どこにいても病院から電話がかかってきました。
副院長が招待してくださった軽井沢でも、旧友に会いに行った愛知県の島でも携帯電話は鳴り、実際に軽井沢へは7人で行って、着いてしばらくして予期せぬ電話があり、すぐに僕1人で帰りました。とはいえ、それは至極当たり前のことでした。
ただそんな携帯電話が鳴らないのが、年に5日取れる夏休みだったのです。5/365の貴重な休日でした。
身体を壊して数日入院して退院したばかりであった医師4年目以外、医師1年目の夏休み、そして2年目の夏休み、3年目の夏休みとその北海道の丘には3年連続で通いました。一度目で心を奪われ、二度目で再確認し、三度目で定着しました。
その丘を登るのはけして楽ではありません。
しかし登り切ったところに広がる景色は最高でした。私の人生の五指に入ります。
大きく伸びをして息を吸い込むと、例えようがないほどに新鮮な空気が胸腔に入っていきました。それは至福の時だったのです。
5年目に関東を離れると、北海道はさらに遠くなりました。
丘はいつまでも美しい丘であり続けましたが、その輪郭は揺らいでもいました。
医師8年目で僕は関東に帰ってきました。そして出会いました。
40代前半女性の進行肺がんの患者さんでした。
診断時には既に複数の転移もありましたが、抗がん剤の治療を受けながら頑張っていました。次第に通院も難しくなり、在宅生活の支援と症状の緩和を目的に私たちに白羽の矢が立ちました。
彼女が住まうマンションに往診すると、臥床しがちだった彼女の部屋からは、息子さんたちの賑やかな声がよく聞こえました。
「一人でも賑やかなのに、三人もいるから」
いつも微笑んでいました。病気は進んでいましたが、表情に陰りはなく、常に前を向いていらっしゃいました。
発端は何気ない問いでした。
「そういえば、ご実家はどこなんですか?」
実家が遠いので、あまり帰れず、本当はそちらにいる高齢の両親にも会っておきたいのですが・・というお話でした。
「ええ、私・・北海道なんです」
「え? 北海道なんですか? いいですね、北海道。何度も行ったことがありますよ」
「そうなんですか!」
少しだけ嬉しそうな彼女。
「でも、先生は私の生まれ育ったところには来たことはないでしょうね」
「どうでしょう? 僕、結構行っていますよ。どこなんですか?」
「◯◯◯です」
「◯◯◯!? 行ったことありますよ! そこのどこですか?」
「あの丘」のふもと。
それが彼女の生まれ育ったところだったのです。
実話も実話。現実も現実。世の中は小説より奇なり。僕は目を見張りました。
「丘から降りてきて右側に家があるでしょう?」
「ええ、ありますあります!」
丘の輪郭が再びくっきりしてきます。
「その奥の家です。屋根がこんな色の」
「あっ! ああ」
あった。確かにそんな家が。
「先生がまさか行ったことがあったとはね。それも三回も!」
彼女は驚いていましたが、私はもっとでした。こんなことがあるのかと思いました。
しかし今や心のなかではっきり描かれた丘は、遥かな距離を持って感じられたのです。
「それは・・でも確かに遠いですね」
「ええ。だから両親に来てもらうのも難しくて、高齢ですからね。だから行きたいんですよ。でも私も弱ってしまっているから」
残念そうでした。
「行けるといいですね」
「本当に」
彼女はその後も入退院を繰り返しました。そして最後の経過はがんらしく早いものでした。病院に入院し、まもなく逝かれたのです。
とうとう彼女は再び丘のふもとの家に行くことはできませんでした。けれども何とか高齢のご両親を呼びよせ最後に会えたと聞きました。
彼女のがんは診断時に相当進行していました。彼女自身がきっと誰よりも、治らないことをよくわかっていたと感じます。
けれども生きて、息子さんたちと一緒の時間を作り、ご両親とも会えました。
「できるだけ生きないと」
いつも穏やかに笑っていました。
「だから治療を頑張ります」
彼女にとって治療は治らなかったとしても意味があったのです。大切な家族と過ごす時間を一日でも長くすることに彼女の治療の意味がありました。
60代、70代になれば、いざという時に生を手放す覚悟もつけやすいかもしれません。
以前一度だけお会いして大きな学びを頂戴した故人である俳優の入川保則さんも、がんで死を間近にされた時「自分は71歳だから、こういう穏やかな気持ちでいられるというところもあります」と仰っておられました。もう亡くなられてまもなく2年になりますが、入川さんに教えて頂いたことは今も心に残っています。
一方で、僕のブログの読者さん、メッセージを下さる方は40代、30代の女性でがんなどの病気を持っていらっしゃる方も多く、子育ての最中であることも少なくありません。そんな方々のブログを見ると、ただただ頭が下がります。
今ヨミドクターの拙コラムで取り上げている「がん放置」
↓↓
近藤誠さんの「がん放置療法」でいいのか?
は自ら人生の円熟に手をかけた世代らしい物事の考え方なのではないかとも思うのです。確かに「治らなくてもいい」と思う方々ならば実害も少ないでしょう。
ただ、はたして円熟の極みにある60代や70代の医師の先生が主張している「放置」を、もし彼らが30代や40代に自らががんとともに生きることになっていたら、自らの信念に基づいて迷いなく選んだでしょうかと、僕は問うてみたいのです。またその理論はそれほど揺るぎないものなのでしょうかと。
世代や家庭環境によっても適切な(重い病気との)向き合い方は自ずと異なります。それを多くの方が認識することが必要なのだと思いますが、時にエンターテイメント系陰謀論がより耳目を集めるのは悲しいことです。だが負けてはいられません。同じ世代で一生懸命病と向き合っている方たちがいるのですから。
あの後、一度だけ丘に登りました。
黙祷を捧げた後に吸い込んだ空気は、新鮮だけれども懐かしかったです。
大地に根付いて生きる時、自然のただ中にその身を投じる時、机とPCの前でひたすら考えぬいたことが意外に無力であると知ります。
治療を鮮やかに使いこなした彼女を育んだ空気を感じながら丘をゆっくりと下りました。
北海道に大好きな丘があります。
北海道は北海道でも、随分と遠い丘です。
最初の病院の頃は、完全主治医制で、受け持ちの患者さんの具合が悪くなると日本中どこにいても病院から電話がかかってきました。
副院長が招待してくださった軽井沢でも、旧友に会いに行った愛知県の島でも携帯電話は鳴り、実際に軽井沢へは7人で行って、着いてしばらくして予期せぬ電話があり、すぐに僕1人で帰りました。とはいえ、それは至極当たり前のことでした。
ただそんな携帯電話が鳴らないのが、年に5日取れる夏休みだったのです。5/365の貴重な休日でした。
身体を壊して数日入院して退院したばかりであった医師4年目以外、医師1年目の夏休み、そして2年目の夏休み、3年目の夏休みとその北海道の丘には3年連続で通いました。一度目で心を奪われ、二度目で再確認し、三度目で定着しました。
その丘を登るのはけして楽ではありません。
しかし登り切ったところに広がる景色は最高でした。私の人生の五指に入ります。
大きく伸びをして息を吸い込むと、例えようがないほどに新鮮な空気が胸腔に入っていきました。それは至福の時だったのです。
5年目に関東を離れると、北海道はさらに遠くなりました。
丘はいつまでも美しい丘であり続けましたが、その輪郭は揺らいでもいました。
医師8年目で僕は関東に帰ってきました。そして出会いました。
40代前半女性の進行肺がんの患者さんでした。
診断時には既に複数の転移もありましたが、抗がん剤の治療を受けながら頑張っていました。次第に通院も難しくなり、在宅生活の支援と症状の緩和を目的に私たちに白羽の矢が立ちました。
彼女が住まうマンションに往診すると、臥床しがちだった彼女の部屋からは、息子さんたちの賑やかな声がよく聞こえました。
「一人でも賑やかなのに、三人もいるから」
いつも微笑んでいました。病気は進んでいましたが、表情に陰りはなく、常に前を向いていらっしゃいました。
発端は何気ない問いでした。
「そういえば、ご実家はどこなんですか?」
実家が遠いので、あまり帰れず、本当はそちらにいる高齢の両親にも会っておきたいのですが・・というお話でした。
「ええ、私・・北海道なんです」
「え? 北海道なんですか? いいですね、北海道。何度も行ったことがありますよ」
「そうなんですか!」
少しだけ嬉しそうな彼女。
「でも、先生は私の生まれ育ったところには来たことはないでしょうね」
「どうでしょう? 僕、結構行っていますよ。どこなんですか?」
「◯◯◯です」
「◯◯◯!? 行ったことありますよ! そこのどこですか?」
「あの丘」のふもと。
それが彼女の生まれ育ったところだったのです。
実話も実話。現実も現実。世の中は小説より奇なり。僕は目を見張りました。
「丘から降りてきて右側に家があるでしょう?」
「ええ、ありますあります!」
丘の輪郭が再びくっきりしてきます。
「その奥の家です。屋根がこんな色の」
「あっ! ああ」
あった。確かにそんな家が。
「先生がまさか行ったことがあったとはね。それも三回も!」
彼女は驚いていましたが、私はもっとでした。こんなことがあるのかと思いました。
しかし今や心のなかではっきり描かれた丘は、遥かな距離を持って感じられたのです。
「それは・・でも確かに遠いですね」
「ええ。だから両親に来てもらうのも難しくて、高齢ですからね。だから行きたいんですよ。でも私も弱ってしまっているから」
残念そうでした。
「行けるといいですね」
「本当に」
彼女はその後も入退院を繰り返しました。そして最後の経過はがんらしく早いものでした。病院に入院し、まもなく逝かれたのです。
とうとう彼女は再び丘のふもとの家に行くことはできませんでした。けれども何とか高齢のご両親を呼びよせ最後に会えたと聞きました。
彼女のがんは診断時に相当進行していました。彼女自身がきっと誰よりも、治らないことをよくわかっていたと感じます。
けれども生きて、息子さんたちと一緒の時間を作り、ご両親とも会えました。
「できるだけ生きないと」
いつも穏やかに笑っていました。
「だから治療を頑張ります」
彼女にとって治療は治らなかったとしても意味があったのです。大切な家族と過ごす時間を一日でも長くすることに彼女の治療の意味がありました。
60代、70代になれば、いざという時に生を手放す覚悟もつけやすいかもしれません。
以前一度だけお会いして大きな学びを頂戴した故人である俳優の入川保則さんも、がんで死を間近にされた時「自分は71歳だから、こういう穏やかな気持ちでいられるというところもあります」と仰っておられました。もう亡くなられてまもなく2年になりますが、入川さんに教えて頂いたことは今も心に残っています。
一方で、僕のブログの読者さん、メッセージを下さる方は40代、30代の女性でがんなどの病気を持っていらっしゃる方も多く、子育ての最中であることも少なくありません。そんな方々のブログを見ると、ただただ頭が下がります。
今ヨミドクターの拙コラムで取り上げている「がん放置」
↓↓
近藤誠さんの「がん放置療法」でいいのか?
は自ら人生の円熟に手をかけた世代らしい物事の考え方なのではないかとも思うのです。確かに「治らなくてもいい」と思う方々ならば実害も少ないでしょう。
ただ、はたして円熟の極みにある60代や70代の医師の先生が主張している「放置」を、もし彼らが30代や40代に自らががんとともに生きることになっていたら、自らの信念に基づいて迷いなく選んだでしょうかと、僕は問うてみたいのです。またその理論はそれほど揺るぎないものなのでしょうかと。
世代や家庭環境によっても適切な(重い病気との)向き合い方は自ずと異なります。それを多くの方が認識することが必要なのだと思いますが、時にエンターテイメント系陰謀論がより耳目を集めるのは悲しいことです。だが負けてはいられません。同じ世代で一生懸命病と向き合っている方たちがいるのですから。
あの後、一度だけ丘に登りました。
黙祷を捧げた後に吸い込んだ空気は、新鮮だけれども懐かしかったです。
大地に根付いて生きる時、自然のただ中にその身を投じる時、机とPCの前でひたすら考えぬいたことが意外に無力であると知ります。
治療を鮮やかに使いこなした彼女を育んだ空気を感じながら丘をゆっくりと下りました。