皆さん、こんにちは。大津です。


病気になった時に

「苦しさをできるだけ取り除いてほしい」

と思うのは当然だと思います。


皆さんもそうでありますでしょう?


それなのに、苦痛を和らげる「緩和」という
言葉が、なぜか

「治療終了と引き換え」になってしまっている

という摩訶不思議な現状があるわけです。


若手医師の一部も、どこで習ったかわかりませんが、

「治療か緩和かです」

「治療を諦めるならば、緩和に行ってください」

「治療ができなくなったら、緩和に専念しましょう」

と平気で言います。


わかりません。

なぜ誰しも「苦痛を取ってもらいたい」と
願っているのが、
治療の終了引換券(権)みたいになってしまって
いるのでしょうか?


また最近減りましたが、こういった医療者側の
誤った説明と呼応するかのように

「緩和だけは行きたくない」

「緩和なんて諦め」

「◯◯さんは緩和を拒絶して逝かれた」
(美談仕立て、で)

というような一般の方の反応、社会に
流布する表現が認められておりました。
そして一部、認められ続けております。


もう一度、強調します。

「なんで最初から、そして治療ができ
なくなるまでの間ずっと、痛みや苦しみ
を我慢する必要があるのですか?」

がんの痛みは通常
痛みの利益はありません。我慢するだけ
損です。心身の疲労が蓄積し、
世をはかなく思わせ、死を希求させます。
あるいは日夜に死を想起させます。
百害あって一利なしです。

それなのに未だに
我慢し、我慢させるという風潮が一部に
あるのは、変なことです。
そしてそれがまた、治療の終了引換券に
なってしまっているのが不思議です。

また一般の方も、がんを患われている方の
中にも緩和=治療終了であると
信じている方がいるのが不思議です。


なぜ、
治療の終了が
緩和に専念、緩和しかない、という
言葉に化けてしまうのでしょうか?
なぜ、治療ができなくなったら
緩和なのでしょうか?

普通に考えておかしくないでしょうか?

そう、おかしいのです。


さて、そういう誤った認識と裏腹に

「苦しさをできるだけ取り除いてほしい」

と願う大部分の方にとって、実は
最高の道具が「緩和ケア」なわけです。
そしてそれを提供するのが「緩和ケア
チーム」なわけです。


ところが、どこの病院も
パンクするくらい緩和ケアチーム依頼が
殺到しているという話はあまり聞きません。

そう、現在は
「知る人ぞ知る、隠れ家」になって
しまっているのではないでしょうか?

あるいは同じ料理人(がん治療医)の中で
優れた一部が顧客(患者さん)を紹介する店、
のような。


病院の緩和ケア回路を活性化するためには
まず依頼がないといけません。
そのためには、患者さんやご家族が
自ら声をあげて、「緩和ケアにかかりたい」
と言ってくれなければいけません。
待っていて全てが提供されるのが現状では
ありませんし、またきちんと意思表示を
しなければ望むような時間も訪れません。

自ら声をあげ、その病院の第一例、第二例
となり、その病院の緩和ケア回路を活性化
する一助となって頂く必要があります。

もちろん病院上層部の理解や、緩和ケアの
専従の医師の確保と尽力などが必要です。
ただ緩和ケアは、精神力は必要ですが、
常人ならざる体力や、高度に手先細やかな
器用さなどは要求されません。
従って、人生経験多く、医師経験長く、
しかして若手のようなハードな勤務が
こたえるようになっている医師にもまさに
新しい職として好適なものです。もちろん
最新の緩和ケアの提供のためには、習熟が
必要ですが、担当者を決めて腰を据えて
取り組めば異様に難しいハードルがあるわけ
ではありません。


これから医療現場はますます高齢化の帰結
として、環境としては大変となることでしょう。

医療者は信用出来ないという意味では厳になく、
医療者任せにはしておけない時代です。
上げ膳据え膳では立ち行かないし、
どんどん一般の方が声を挙げてゆかねば
変わってゆきません。

一人でも
緩和ケア(チーム)という道具を使いこなして
ほしいと思いますし、
ひとたび緩和ケアチームに関与してもらって
いるのならば、それは素晴らしい道具を手に入れている
ということなのですから、
何でもかんでも批判的に見るのではなく
専門家の言うことも信じてやってみることです。

道具も価値がわからなければ、最後まで力を
発揮することができません。
道具の価値を知って、不信に囚われずに使うことで
それは皆さんの行く手に光をもたらしてくれるはずです。


引き続き正しい言葉の広がりを願って。

いつも読んでくださってありがとうございます。


良き週末をお過ごしください。
失礼します。