皆さん、こんにちは。大津です。


岩手県の支援を行っている
つなげるつながる会、その代表が
笹原留似子さんであることは
以前のブログで述べました。


彼女を一極に岩手県北上に集う皆さんは
本当に多士済々。
さらに皆が「緩和ケア」を使いこなしている
方たちばかりで瞠目しています。

ブログ読者さんはご存知と思いますので
念のためですが、緩和ケアは医者だけが
行うものではありません。もちろん
看護師だけが行うものでもありません。

医療者だけしかできないものでも
ありません。

極端な話をすると、緩和医療に使用する
薬剤を使いこなしている医師よりも
介護士、一般の方、清掃の方・・など
のほうが素晴らしい緩和ケアをすることも
あります。

比較の話、というよりも、それぞれが
「緩和ケアの担い手になれる」ということ
です。誰でもできるのです。そしてむしろ、
しなければいけません。


先述したように、つなげるつながる会の
皆さんは緩和ケアの「使い手」が多いです。

そんな使い手のお一人にお坊さんの
太田宣承さんがいます。

宣承さんについては下のブログに引用されている
朝日新聞夕刊の記事をご参照ください。
↓↓
http://plaza.rakuten.co.jp/nmm3yuka12/diary/?ctgy=0


見た目は柔和なそれこそ端正なお顔立ちの
青年僧侶さんです。しかも真宗のお坊さんなので髪の毛が
ありますので、いわゆる僧侶の見た目ではなく、
爽やかな一般の方といった印象を一見受けます。


けれども上の短い記事の中に、きらきらと光る
言葉が幾重にも織り込まれているように、もちろんただの
お方ではありません。

記事からいくつか言葉を引用します。


「『生きる意味』に何の遜色もないということを
 発見し合える道場としたい。
 職員が老人に学ぶという関係でありたい」(宣承さんの
亡きお父様の理念)

(ブログ主注:私の師匠が「医者の先生は患者さんである。
患者さんから学べ」と教えてくれたことに共通するような
後半の言葉です)



「自分たちを育て、支えてくれた人たち(ブログ筆者注:お年寄りたち)が
 最期まで尊敬される場所を地域につくりたかったようです」



かつて父が「車いすパワー」と呼んだ逸話がある。
車いすで買い物や散歩に出かけるお年寄りに、
ある時、匿名の礼状が届いた。

 【会社が倒産、自殺しようと湯本温泉に来て、
  ぼうぜんと歩いていると、
  車いすのおばあさんがニコニコしながら、
  声をかけてくれました。
  『やあ、こんにちは。天気が良いなあ。さようなら』と。
  私はまさかりで頭を割られたような衝撃を受けました。
  もう一度頑張ってみます。
  老人ホームのみなさん、ありがとうございました】



「福祉とは弱い人を強い人が救うことではなく、
 弱い立場だからこそ芽生えたすてきな心を
 殺伐とした世の中の人たちに戻していくこと。
 年老いても心の自由を失わないでいると、
 その人を見て救われていく人も多くなる。
 そういう悠久無限の回転がある」。
父は、そう語っていた。



看取りを重ねるうちに、父の思いがわかり、
「人は亡くなる時にメッセージがある」
と思うようになった。



「僕もいつ終わるかわからない命を生きている。
 生きるためのメッセージを送るのが僧侶。
 老人ホームの仕事もお年寄り、家族、職員が今を生きること。
 一つにつながりました」



この震える言葉の数々。
これこそなみの宗教家からは出てこない言葉。

「生きるためのメッセージを送るのが僧侶」
私もそう思います。

本来宗教家は「生きるためのメッセージを送る存在
だった」わけです。とりわけ仏教の創始者である
釈迦は「どう生きるか」を示しました。
生きることの苦を、どう受け止め、どう対処すれば
良いのか、それが仏教の創始点であったはずです。


そんな宣承さんのブログもまた、素晴らしいです。

本日の記事。
↓↓
http://blog.goo.ne.jp/sensyouda/e/e5cfa04aed267a7b2a473ed9730a139a

引用します。

(以下、引用)

 在宅での看取りを追求していくことはとっても大事。
 でも、そこに価値が置かれ過ぎて、病院や施設での最期が価値の無いものであるように感じる人たちが必ず出てくる。
 これは食い止める必要がある。

 どの最期も、どこで迎えようが価値がある!

 多くの人たちが自宅を望むのは、そこが安らぐ場所だから。大切な場所だからである。

 自宅が安らがない人だっている。

 だとすれば、病院や施設が、その人の安らぐ場所になっていく必要がある。
 安心して死んでいける場所になる必要がある。

 看取り…こだわるべきは場所そのものよりも、その人ご自身が安らぐ環境であることではないだろうか。

(以上、引用終わり)


この文章、私は全く同感です。

そして、老い、病を得、終末期を迎えている方たちに関わる
私たちは、自らたちがいる(働く)場所を、老い、病み、
終末期にある方々にとって安住の地にしてしまえば良いのです。

忙しいから。
マンパワーがないから。
嫌いな職場の人がいるから。
何も学ぶべきものがないから。

・・理由を付けるのは簡単です。

けれども目の前の方と巡り合ったのも「ご縁」です。

小我を捨てて、その方のためにと、そう思って
働く人たちが一人でも多くなれば

その方にとってそこが安住の地となるのです。


緩和ケアとは
「もうやれることがないので緩和に行ってください」とか
「この病院は治療しない患者さんは置いておけないから
ホスピスに行ってもらうことになります」とかという誤った
言葉の対極にあるケアであり、医療です。

「できることを探す」のが緩和ケアであり、
患者さんの望みを引き出すのが緩和ケアであり、
何が一番その方にとって良いのかを相談するのが
緩和ケアであり、

「どの最期も、どこで迎えようが価値がある!」
と宣承さんが力強く言い切って下さったように、
どんな方でも尊敬され、尊重され、尊厳をもって
接せられ、生きているだけでも価値があるのだと、
そこに意味があるのだと、それをどのような場所
においても支えるのが緩和ケアです。


日本の医療機関の中に、忙しさや近しい人間関係の軋轢に
負けずに、弱った方たちを大切に支え、
自分たちのいる場を「安住の地としてしまう」志を持つ
医療者がたくさん増えて、そんな医療機関ばかりになって
ゆくことを願います。


それでは皆さん、また。
今日はこれから医療者向け緩和ケア研修会の講師に行って参ります。
頑張って参ります。
失礼します。