皆さん、こんにちは。大津です。

「大津のいじめ」という、
心地良くない言葉についての続きです。

大津、という言葉だけではなく
京都の左京区で勤務している頃も実は
大津市は山向こうで何度も行き来して
いました。大津は私にとって精神的
に遠くない都市です。


劇作家の鴻上尚史さんの
こういう文章があったのですね。
↓↓
「いじめられている君へ」
「死なないで、逃げて逃げて」



残念ながら人のサガである
弱肉強食の世界の中で、
私も学校で、職場で、
何度もいじめに合ってきました。
(もっとも、職場の場合はいじめと
いう表現というよりは、学校のように
圧倒的力の差がないので”攻撃”と言った
ほうが近いのだと思いますが)

鴻上尚史さんの「逃げて」という
メッセージ、経験者からすると
まさにその通りだと思います。

鴻上さんの文章中の

「死んでも、いじめたやつらは、
絶対に反省しません」


私もそう思います。

彼らは、彼女らは、絶対に反省なんかしません。

だから決して、本当に死ぬことで反撃しないでください。
私と約束してください。

「へー」
「まさか死ぬとはね」

と多少後味が悪い思いを彼らは感じるだけです。
いや、それすら感じず、死んだほうを「なんだよ
あいつ」「死ぬほうが悪い」などと責めるだけ
です。しまいには「あいつのせいでこうなった」
「あいつはいじめられるのが当然だったんだよ」
「あいつ自身の性格が悪いからこうなったんだ」
などとも言い出します。

内の論理が染み付いている以上、
自分が悪いなんてこれっぽっちも思いません。

「まずいなあ・・」
と自分のことを心配するだけです。
自分の立場がまずくなって初めて、
その事自体を恐れます。あいつに悪かったなあ
とは思いません。「まずったな・・」と思う
だけです。

そんな人たちのせいで死ぬなんて
もったいないのです。
逃げて、外の力を使って何とかして、
生き抜くことで最大の反撃をするのです。

いじめた側はきれいさっぱり忘れて
しまっていると思いますが、いじめられた側は
その痛みを簡単に忘れることはないでしょう。
いや、一生涯忘れられないかもしれません。

そこには激しい温度差があります。
いじめた側からすれば些細なことでも、
いじめられた側にとっては一生ものなのです。

命だけは、本当に大切にしてください。
生きていれば、いつか必ず「生きて良かった」と
思える時があるはずです。
あのような異常な環境の異常な論理に
自分も染まっていたんだなと気が付く時が
来るはずです。

そしていつか強くなったら、いじめを世の中
から減らすことに力を奮ってほしいと思います。


「いじめられている君へ」には”さかなクン”の
文章もあります。これも興味深いです。
↓↓
広い海へ出てみよう

(引用します)

 でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。

 広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。

 中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。

(以上引用です)

昨日のブログで触れた通り、内藤朝雄さんの
論じられていることと、さかなクンの観察は
一致しています。

「広い海の中ならこんなことはないのに、
小さな世界に閉じこめると、
なぜかいじめが始まるのです」


まさにその通りでしょう。

小さな仕事場での激烈ないじめと、
ターゲットを変えた終わりなき
その継続を見知っている私としては
これはもう確実な事実だと感じています。

いじめは個人の資質の問題ではなく、
ある環境なら確実に頻発・増悪するものです。



私たちはもっとその事実を知らねば
なりません。
それなので、そのシステムや環境そのものに
改良を加えることが重要なのです。


残念なことですが、
周囲を誘って弱きを攻撃すること。
狩猟時代から、世界大戦まで。
これこそ人間の性質です。
そうやって何千年も同じことを
しているわけですから、簡単には
変わらないわけです。力があるものは
周囲を巻き込んで弱い者を叩き潰して
くるのが当たり前だったからです。

いじめを減らすことができた時、
人間は次のgiant stepを成し遂げたと言えるの
ではないでしょうか。


それでは皆さん、また。
失礼します。