皆さん、こんにちは。大津です。
以前「緩和ケアの普及」のために
都議会で演説された早坂義弘議員
が、防災について都庁にて明日質問に
立たれるそうです。午後3時15分頃
から50分間だそうです。
防災も、医療も、それ自体で儲ける
ことは難しい分野ですから、民間の
力のみでは限界があります。特に
防災はそうでありましょう。ゆえに
政治や行政の力が欠かせません。
既に報じられている通り、昨年の
震災において、一人も死者を出さなかった
岩手県の「普代村」という村があります。
普代村には「普代水門」という
高さ15.5メートル・幅205メートル
という立派な水門がありました。
この水門が襲いかかる津波から村を救った
のです。
この普代水門を周囲の反対に屈せずに
作り上げたのが、普代村の元村長である
故・和村幸得さんでした。
この水門の建設は容易なものではありませんでした。
高さが15メートル以上と高すぎると思われたこと
(宮古市田老地区の鉄壁と考えられていた防潮堤で
すら海面高さ10メートルでした)、また36億円
に及んだ総工費などから、非難・反対を受けました。
建造に携わった現村長の深渡さんも、「これほど
大きなものが必要なのだろうか」と思ったそうです。
「金を他のことに使えばいい」「ここまでの高さは
必要なのか」「津波なんか本当に来るのか」との
異論も出ました。
しかし和村さんは譲りませんでした。
1933年の大津波の体験者である和村さんは
「積もった土砂の中から死体が掘り起こされるの見た
時は、何と言っていいのか言葉が出てこなかった」
その悲劇を知っていました。
1896年、1933年の2回、普代村は多数の
犠牲者を出してきました。
「2度あることは3度あってはならない」
豊かな海がいつかまた牙をむく日が来ることを
彼は予期していたのです。
1896年の津波は15.1メートルと記録されて
いました。「15.5メートルはけして譲れない」
彼はそう言ったそうです。
土地を売ることを強制された地主の反感、
その大きさへの疑念は払拭されないまま、
工事は1972年に始まりました。
今から40年前、昨年の大震災からは
39年前でした。
1984年に普代水門は完成しました。
1987年和村さんは村長を退任します。その時の
言葉です。
「村民のためと確信をもって始めた仕事は反対
があっても説得をしてやり遂げてください。
最後には理解してもらえる」
「これが私の置き土産です」
和村さんは1997年、この世を去っています。
それから14年後、水門の着工から実に約40年後、
彼の先見の明は証明されました。
大震災で襲いかかる津波。
宮古市田老地区の10メートルの防潮堤も決壊しました。
普代村にも津波は押し寄せます。
3人の消防士の手で、しかし、津波の来襲前に水門は閉じ
られました。
津波は水門を2メートル乗り越えたものの、水門は
水の激しい衝撃でも壊れませんでした。水門は津波の勢いを
減衰し、水流は水門から数百メートル先で停止したのです。
結果、行方不明者が1名出たものの、死者は0名、
住居への被害は0件でした。他の沿岸の自治体に比べて
被害が極めて軽微に留まりました。
この出来事は世界でも報じられることになりました。
例えば、米国の『ワシントン・ポスト』で、あるいは
英国『デイリー・メール』紙の下記のように。
↓↓↓
http://www.dailymail.co.uk/news/article-1386978/The-Japanese-mayor-laughed-building-huge-sea-wall--village-left-untouched-tsunami.html
題名は
The Japanese mayor who was laughed at for building a huge sea wall - until his village was left almost untouched by tsunami
とあります。
かつて笑われた和村さんをもはや笑う人はいません。
確かに彼は”本当の結果”を見ることがなく世を
去りましたが、それこそも折り込み済みで、
その目は40年先、いやもっと先をも見据えて
いたように感じます。
「村民のためと確信をもって始めた仕事は反対
があっても説得をしてやり遂げてください。
最後には理解してもらえる」
「これが私の置き土産です」
デイリー・メール紙の記事に36歳の少年野球の
監督の話が出て来ます。
「あの津波まで、水門についてあまり考えたこと
はありませんでした」
「ただ常にそれはそこにあるものという感じでした」
「でも今はとても感謝しています」
一人の政治家の信念が残した未来世代への贈り物でした。
以前「緩和ケアの普及」のために
都議会で演説された早坂義弘議員
が、防災について都庁にて明日質問に
立たれるそうです。午後3時15分頃
から50分間だそうです。
防災も、医療も、それ自体で儲ける
ことは難しい分野ですから、民間の
力のみでは限界があります。特に
防災はそうでありましょう。ゆえに
政治や行政の力が欠かせません。
既に報じられている通り、昨年の
震災において、一人も死者を出さなかった
岩手県の「普代村」という村があります。
普代村には「普代水門」という
高さ15.5メートル・幅205メートル
という立派な水門がありました。
この水門が襲いかかる津波から村を救った
のです。
この普代水門を周囲の反対に屈せずに
作り上げたのが、普代村の元村長である
故・和村幸得さんでした。
この水門の建設は容易なものではありませんでした。
高さが15メートル以上と高すぎると思われたこと
(宮古市田老地区の鉄壁と考えられていた防潮堤で
すら海面高さ10メートルでした)、また36億円
に及んだ総工費などから、非難・反対を受けました。
建造に携わった現村長の深渡さんも、「これほど
大きなものが必要なのだろうか」と思ったそうです。
「金を他のことに使えばいい」「ここまでの高さは
必要なのか」「津波なんか本当に来るのか」との
異論も出ました。
しかし和村さんは譲りませんでした。
1933年の大津波の体験者である和村さんは
「積もった土砂の中から死体が掘り起こされるの見た
時は、何と言っていいのか言葉が出てこなかった」
その悲劇を知っていました。
1896年、1933年の2回、普代村は多数の
犠牲者を出してきました。
「2度あることは3度あってはならない」
豊かな海がいつかまた牙をむく日が来ることを
彼は予期していたのです。
1896年の津波は15.1メートルと記録されて
いました。「15.5メートルはけして譲れない」
彼はそう言ったそうです。
土地を売ることを強制された地主の反感、
その大きさへの疑念は払拭されないまま、
工事は1972年に始まりました。
今から40年前、昨年の大震災からは
39年前でした。
1984年に普代水門は完成しました。
1987年和村さんは村長を退任します。その時の
言葉です。
「村民のためと確信をもって始めた仕事は反対
があっても説得をしてやり遂げてください。
最後には理解してもらえる」
「これが私の置き土産です」
和村さんは1997年、この世を去っています。
それから14年後、水門の着工から実に約40年後、
彼の先見の明は証明されました。
大震災で襲いかかる津波。
宮古市田老地区の10メートルの防潮堤も決壊しました。
普代村にも津波は押し寄せます。
3人の消防士の手で、しかし、津波の来襲前に水門は閉じ
られました。
津波は水門を2メートル乗り越えたものの、水門は
水の激しい衝撃でも壊れませんでした。水門は津波の勢いを
減衰し、水流は水門から数百メートル先で停止したのです。
結果、行方不明者が1名出たものの、死者は0名、
住居への被害は0件でした。他の沿岸の自治体に比べて
被害が極めて軽微に留まりました。
この出来事は世界でも報じられることになりました。
例えば、米国の『ワシントン・ポスト』で、あるいは
英国『デイリー・メール』紙の下記のように。
↓↓↓
http://www.dailymail.co.uk/news/article-1386978/The-Japanese-mayor-laughed-building-huge-sea-wall--village-left-untouched-tsunami.html
題名は
The Japanese mayor who was laughed at for building a huge sea wall - until his village was left almost untouched by tsunami
とあります。
かつて笑われた和村さんをもはや笑う人はいません。
確かに彼は”本当の結果”を見ることがなく世を
去りましたが、それこそも折り込み済みで、
その目は40年先、いやもっと先をも見据えて
いたように感じます。
「村民のためと確信をもって始めた仕事は反対
があっても説得をしてやり遂げてください。
最後には理解してもらえる」
「これが私の置き土産です」
デイリー・メール紙の記事に36歳の少年野球の
監督の話が出て来ます。
「あの津波まで、水門についてあまり考えたこと
はありませんでした」
「ただ常にそれはそこにあるものという感じでした」
「でも今はとても感謝しています」
一人の政治家の信念が残した未来世代への贈り物でした。