今年101歳で亡くなられた仏教者の
松原泰道先生。
先生の『般若心経入門』『仏教入門』
を読んで、印象的な詩を知りました。

フランスの詩人のジャン・タルジューの
詩のこんな一節です。

死んだ人々は
還ってこない以上
生き残った人々は
何がわかればいい?


その人の死によって、その人が生きていたら
決してわからなかったであろうところの、
人生の真実の意味がわかることが、死者を愛し
死者に対面し、死者と対話できる知恵であると
(『般若心経入門』より)
先生は気が付かれたのです。

先生の師父である、祖来和尚が亡くなったとき、
先生は毎日読み慣れていた短いお経が、涙で声が
つまりどうしても読めなくなってしまったそうです。

それから10年が経ち、ジャン・タルジューの詩に
めぐりあったとき、先生は思ったそうです。

「ああ、そうだったのか。
師父が死ぬまでは、私の読経は風が吹けば
飛んでしまうような無力な読み方だったのだ。
涙で声がつまらなけりゃほんとうの読経は
できんのだぞ」と。

そしてこう思ったのだそうです、
師父が、かりに今日まで生きていたら、
かえってわからなかったこのことを、
その人の死によって教えられたという
ことがわかりました、と。

死んだ人々は還ってこない以上、
我々に求められているのは、
そこから何かをつかむことなのでしょう。
死者が我々の心に残してくれたものを
見つめ、育て、生かすことなのです。
その時、死者は我々の心でずっと生き
続けることになると思うのです。

僕自身も最近不幸があったばかりなので、
先生が「静かな爆発を心に感じました」(前掲書)と
おっしゃるこの詩に大いに感ずるところがありました。

他にも先生の本には印象深い言葉が数々
散りばめられています。同じく前掲書からの引用です。

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空しさやうつろさは、しかし、死とか別れのような暗い
場面に感じるとは限りません。現代の日本のように、
経済的に高度の生活がつづくと、「満ち足りている」
ことに空しさと不服を感じるのです。

欲求不満は貧困生活だけに起こる現象ではありません。
欲求は、どれだけ充足されても永久に解消することの
ない不満と不服を背負っているのです。それが欲求や
欲望の性格です。

生活が豊かになるにつれて、また、しあわせがいっぱい
になればなるほど、貧しいときとは違った不足を訴えます。
たとえば、隣人は車を持っているが、自分のところには
ないという、ただそれだけのことで不満を爆発させたり、
劣等感を起こします。さらに、車が買えると、さらに新型
が欲しいといったふうに、欲望を自制できず欲望のエスカレート
に苦しんでいるのが現代人ではないでしょうか。
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端から見ていると、幸せのさなかにいるように
見えるのに、心は不満と不服だらけで、
他人を攻撃して止まない人がいます。

生きるということは何か、それを思わずには
いられませんし、終末期医療に携わる医療者は
より深く、逝く人から学び、自らを省みる姿勢が
求められていると思います。

「私は何をわかればいいのか?」
その問いなくして、成長もまたないと思います。
101歳の先生の指し示して下さったものは大きいです。