8月15日。
64回目の終戦記念日です。

小学生の頃、実家がある田舎では
正午を回るとサイレンが鳴り、黙祷を捧げたものでした。

これまで関わらせて頂いた患者さんには戦争帰りの方も多く、
色々なお話を聞かせて頂きました。

終戦となり、価値観は変わり、戦争を語るのが難しくなって
しまったとしても、経験者はそれが人生観や死生観に大きな
影響を与えたことを、死を前にして語っておられたなあと
思い出します。

今の日本の繁栄があるのは、間違いなく先人のおかげだと、
僕は逝ける人の話を聞いて確信しました。
彼らのおかげで、今の我々があることを、我々はけして
忘れてはならないと思います。

日本のため、愛する人を守るため、
散っていった方々のことを、心を込めて祈ります。
そして、その遺族の方々の苦難にも。

軍人・軍属約230万人、一般市民約80万人、
その尊い犠牲の上に今日があることを感謝し、
先人達の振る舞いに恥じぬように、生きていきたいと
思うものです。

読売オンラインに下記のニュースが掲載されていました。
抜粋します。


参列者で最高齢となるのは101歳の池端志津江さん(さいたま市見沼区)。過去の追悼式でも最高齢となる。夫・正雄さんは1944年8月に臨時召集され、輸送船で南方戦線に向かう途中の同12月、台湾・フィリピン間の海峡で潜水艦の雷撃を受けて戦死した。

2人は当時では珍しい恋愛結婚だった。夫は自分が勤めた染め物工場で妻が働けるよう取り計らい、南方へ旅立った。「子供を頼む」。そう言い残した夫の戦死の知らせが届いたのは終戦の翌年だった。

子供は男ばかり3人。生活は苦しかったが、埼玉県内の染め物工場で55歳まで働き、3人を育て上げた。その間も夫と過ごした家を離れようとはしなかった。息子たちが次々に巣立った後も住み続けた。「母はいつか父が帰ってくる。そう信じて生きてきたのだろう」。三男の正之さん(69)はそう思ってきた。しかし95歳の時、硬膜下出血で倒れる。退院した後は愛着のあった家を離れ、長男宅で暮らしている。

「戦争のことは忘れた」。息子たちにかたくなに言い続けた。何も語ろうとしない。大戦を扱ったテレビ番組も見ない。追悼式の案内が来ても関心を示さなかった。昨夏、新聞で追悼式の記事を読んだ後、「私も出たいわ」とつぶやいた。同じ戦没者の妻たちが高齢を押して参列していることを知り、気持ちが変わった。

それから1年後のこの日、車いすに乗った志津江さんは正雄さんの遺影を胸に抱え、武道館に入った。「お国のためでしたけど、大変な目に遭った。残念です」と思いを語った。追悼式に初めて参列することは、「あの世にいるお父さんも喜んでいると思います。お父さんのおかげで私は長生きできた。みんなが平和に健康に暮らせることを願っています」と話した。