人は過ちを犯さないで生きることは出来ません。

もちろん犯罪というほどの大きな過ちではなくとも、
人を傷つけたり傷つけられたり等
そのような行為と無縁で一生を送れる人はいないでしょう。

ところが恐ろしいのは、集団がある力に導かれて
間違った方向へわき目も振らずに突っ走り始めると、
時にそれは歴史の汚点となって現れることがある
という事実です。

医師であり作家であった故・松田道雄先生の作品
『安楽に死にたい』でも指摘されているように
多くの日本人には長らく「自立した市民の意識」がなく、
「近代的自我」より「集団的自我」のほうが
なじんでいるのです。

要するに、ややもすると
ながいものに巻かれ、間違っていても異論を唱えず、
集団の意見に左右されやすい資質を持っていると
いうことなのです。

これは集団の意見が間違っていないときは良いです。
しかし、ひとたび集団の意見が暴走し始めると
それを止める者も少なく、結果として集団に
途方もない愚かさと怖さを付与することにも
なりかねないのです。

まだまだ日本には本当の「近代的自我」、つまり
本当の「個人主義」がなじんでいないと思うのです。
一方で、自らよって立つという本当の自由より、
ややもすると自分勝手、他人を押しのけても自分が
快ならばそれで良いとする誤った個人主義が
はびこっています。

また、大同小異のニュースを、
しかもトピックとなっていることのみを
極めて集中的に報道し、一方でやや新鮮さを欠いた
トピックについては全くフォローしないなど、
この国のマスコミは「急性期」にしか興味がないのか?
と疑問を持つことも度々なのです。

とにかく集団に流されやすい世論、
世論におもねて誘導的・恣意的なマスコミ、
これは現代の大きな問題の一つと言えそうです。

ではどうしたら良いのでしょうか?

僕はやはり、情報はあらゆる角度から検討する
必要があると思います。
扇動的な情報が回った時は、
必ず「そうなのだろうか」と自問自答する。

誰かを攻撃する前に、少数派を蹂躙する前に、
本当に相手側の意見は聞くに足らないものなのかを
検討する、そういう姿勢が必要でしょう。

残念ながら日本の各所で、大きなものから
小さなものまで「衆愚」がはびこっているのを
見るたびに、日本人の力は本当にこの程度の
ものだったのかな? と悲しく思わざるを得ません。

ひとりひとりは有能なのですから、
集団に安易によって立つのではなく、
まずは自分で可能な限り調べ、
簡単に白黒をつけずにじっくりと考え、
そこに立つべきなのではないでしょうか。

歴史の女神は厳しく我々の行方を見守っているでしょう。