バプテスト病院時代の同僚ナースから連絡がありました。
近況報告だったのですが、冒頭に
出町柳(京都市)に雪が散らついていると記されていました。

ふとした瞬間に空から粉雪が舞い降りてきた
京都の冬を思い出しました。
「余命半年」の最後のエピソードも、
雪の舞い散る日の出来事でした。
そういえばもう一年になるなと、そう思いました。

さて、僕が勤務している病院
は特定の宗教色はありません。

しかし、ホスピスにはキリスト教系の施設が
たくさんあります。
最近は仏教系の緩和ケア病棟たる「ビハーラ」も
各地に見られるようになりました。

最近終末期の医療にはスピリチュアルケアといって
単に心身のケアばかりでない、霊的なとも言われる
人の根源的な問題をケアする必要性が望まれるように
なりました。

「先生、何で死ぬんでしょうか?」
「死んだらどこに行くんでしょうか?」
「私が生きた意味はどこにあるのでしょうか?」
終末期の患者さんが直面する、そんな悩みです。

それに対処する様々な方法論が生まれつつあります。

とはいえ、あくまで私見ですが、分析や
方法論も大事ですが、その患者さんの根源的な苦悩を
受け止めるだけの何かを医療者が確立することが
もっともっと大事なのではないかと感じています。

僕自身、患者さん方のその圧倒的な問いかけの前に
打ちのめされる時があります。
ただただ頭を垂れるしかない時もあります

そんな悩みの中で、
もっと先人達が残した遺産に学ぶ必要があると思い、
最近様々な宗教書を紐解いています。
残念ながら僕は特定の宗教に帰依することは今後も
ないと思いますが、生と死の現場にいるからこそ
宗教にはとても深い興味があります。

この話も終わりがない話になってしまいますので、
最近ふと思ったことを書きます。

僕は仏教というのは、宗派によって激しく違っているとは
思っていませんでした。
しかし、最近痛感したのは、
たとえば親鸞の浄土と道元の禅はかなり異なった
ものなのだなと、そんなことでした。

念仏を唱え、ひたすらに他力を願う浄土真宗。
本証妙修、つまり人はもともと仏であるが修行が必要だという禅。
そのアプローチの異なり方にとても驚きました。

大乗仏教というくくりでは浄土真宗も曹洞宗も同じなのに、
前者はまるで一神教のような教えで、
後者はまるで上座部仏教のような教えだと感じたのです
(あくまで専門家ではないので、その点ご容赦願います)。

しかし、人を超えた絶対的な存在に帰依するのも、
あるいは己が仏となるのも、
きっと孤独や死を乗り越える助けとはなりましょう。

僕は「なるほどこう考えれば、苦しみから
抜け出せるんだ」
と、先人が考えた叡智が
とても勉強になりました。

昨日絶対的な孤独の話をしました。
もちろん自殺の直接的な原因は経済問題だったり
健康問題、家庭問題だったりするでしょう。

けれども、自殺しようとする人を
絶対的に受け入れてくれる
誰かがいる

ならば、僕は自殺はほとんど起こらないのではないかと
思います。

もちろん自殺のベースには多くの場合うつが
あるとも言われますし、うつがあるならば
その治療は必要ですが。

ただ僕は、自死が頭から離れない人にはぜひ
先人達が残した宗教を紐解いてみては
どうかとも思いました。

少なくとも僕は、おそらく親鸞や道元も
僕と同じような悩みを抱え、そして己の道を
見つけてそれを乗り越えたことを知って
救われました。もちろん彼らと僕の悩み
を同列に論じるなどとても畏れ多いことです。
しかし、きっと人はどんな者も
持っている苦悩は変わりないのだと思います。

忙しい日々の中に、ほんの少しでもこのような
根源的な問題を考える時間を確保したいものです。

それをきっかけとして何らか悟るところがあれば
絶対的に受け入れてくれる人が
残念ながらいなくても
自らが自らを受け入れることが
できるでしょう。


それが「余命半年」の最後、
雪のエピソードに書いた、
心が救うこと
なのです。