三国志(253) 周瑜負傷 |  今中基のブログ

 呉の軍勢は、勝ちに乗って、途中、敵の馬を鹵獲すること三百余頭、さらに進撃をつづけて、遂に南郡城外十里まで迫って来た。 南郡の城に入った曹洪、曹純などは、兄の曹仁を囲んで、暗澹たる顔つきを揃えていた。今にして、この一族が悔いおうていることは、
 「やはり丞相のおことばを守って、絶対に城を出ずに、最初からただ城門を閉じて守備第一にしておればよかった」という及ばぬ愚痴だった。
 「そうだ! 忘れていた」
 曹仁は、その愚痴からふと思い出したように、膝を打った。それは曹操が都へ帰る時、いよいよの危急となったら封を開いてみよ、といって残して行った一巻の中である。その中にどんな秘策がしたためてあるかの希望であった。ここ、周瑜の得意は思うべしであった。まさに常勝将軍の概がある。夷陵を占領し、無事に甘寧を救い出し、さらに、勢いを数倍して、南郡の城を取り囲んだ。
 「……はてな? 敵の兵はみな逃げ支度だぞ。腰に兵糧をつけておる」
 城外に高い井楼を組ませて、その上から城内の敵の防禦ぶりを望見していた周瑜は、こう呟きながらなお、眉に手をかざしていた。

 見るに、城中の敵兵は大体三手にわかれている。そしてことごとく外矢倉や外門に出て、その本丸や主要の墻の陰には、すこぶる士気のない紙旗や幟ばかり沢山に立っていて、実は人もいない気配であった。
 「さては、敵将の曹仁も、ここを守り難しとさとって、外に頑強に防戦を示し、心には早くも逃げ支度をしておると見える。――よし。さもあらばただ一撃に」と、周瑜は、みずから先手の兵を率い、後陣を程普に命じて、城中へ突撃した。
 すると一騎、むらがる城兵の中から躍り出て、
 「来れるは周瑜か。湖北の驍勇曹洪とは我なり。いざ、出で会え」と、名乗りかけて来た。
 周瑜は、一笑を与えたのみで、
 「夷陵を落ちのびた逃げ上手の曹洪よな。さる恥知らずの敗将と矛を交えるが如き周瑜ではない。誰か、あの野良犬を撲殺せい」と、鞭をもって部下をさしまねいた。
 「心得て候う」と、陣線を越えて、彼方へ馬を向けて行ったのは呉の韓当であった。
 人交ぜもせず、二人は戦った。交戟三十余合、曹洪はかなわじとばかり引きしりぞく。
 するとすぐ、それに代って、曹仁が馬を駈け出し、大音をあげて、
 「気怯れたか周瑜、こころよく出て、一戦を交えよ」と、呼ばわった。
 呉の周泰がそれに向って、またまた曹仁を追い退けてしまった。ここに至って、城兵は全面的に崩れ立ち、呉軍は勢いに乗って、滔々と殺到した。
 喊鼓、天をつつみ、奔煙、地を捲いて、
 「今なるぞ。この期をはずすな」
 と、周瑜の猛声は、味方の潮を率いてまっ先に突き進んでゆく。
 息もつかせぬ呉兵の急追に、度を失ったか曹仁、曹洪をはじめ、城門へも逃げ込み損ねた守兵は、みな城外の西北へ向って雪崩れ打って行った。
 すでに周瑜は城門の下まで来ていた。見まわすところ、ここのみか城の四門はまるで開け放しだ。――いかに敵が狼狽して内を虚にしていたかを物語るように。
 「それっ、城頭へ駈け上って、呉の旗を立てろ」と、もう占領したものと思いこんでいた周瑜は、うしろにいる旗手を叱咤しながら、自身も城門の中へ駈けこんだ。
 すると、門楼の上からその様子をうかがっていた長史陳矯が、
 「ああ、まさにわが計略は図にあたった。――曹丞相が書きのこされた巻中の秘計は神に通ずるものであった!」と、感嘆の声を放ちながら、かたわらの狼煙筒へ火を落すと、轟音一声、門楼の宙天に黄いろい煙の傘がひらいた。
 とたんに、あたりの墻壁の上から弩弓、石鉄砲の雨がいちどに周瑜を目がけて降りそそいで来た。周瑜は仰天して、駒を引っ返そうとしたが、あとから盲目的に突入してきた味方にもまれ、うろうろしているうちに、足下の大地が一丈も陥没した。
 陥し穽であったのだ。上を下へとうごめく将士は、坑から這い上がるところを、殲滅的に打ち殺される。周瑜は、からくも馬を拾って、飛び乗るや否、門外へ逃げ出したが、一閃の矢うなりが、彼を追うかと見るまに、グサと左の肩に立った。
 どうっと馬から転げ落ちる。そこを敵中の一将牛金が、首を掻こうと駈けてくるのを、呉の丁奉、徐盛らが、馬の諸膝を薙ぎ払って牛金を防ぎ落し、周瑜の体をひっかついで呉の陣中へ逃げ帰った。

 壕におちいって死ぬ者、矢にあたって斃れる者など、城の四門で同様な混乱におとされた呉軍の損害は、実におびただしい数にのぼった。
 「退鉦っ。退鉦をっ」と、程普はあわてて、総退却を命じていた。
 そして、南郡の城から、思いきって遠く後退すると、早速、
 「何よりは、都督のお生命こそ……」
 と、軍医を呼んで、中軍の帳の内に横たえてある周瑜の矢瘡を手当させた。
 「ああ、これはご苦痛でしょう。鏃は左の肩の骨を割って中に喰いこんでいます」
 医者はむずかしそうな顔をしかめて、患部をながめていたが、傍らの弟子に向って、
 「鑿と木槌をよこせ」と、いった。
 程普が驚いて、
 「こらこら、何をするのだ」と、怪しんで訊くと、医者は、患者の瘡口を指さして、
 「ごらんなさい。素人が下手な矢の抜き方をしたものだから、矢の根本から折れてしまって、鏃が骨の中に残っているではありませんか。こんなのが一番われわれ外科の苦手で、荒療治をいたすよりほか方法はありません」と、いった。
 「ううむ、そうか」
 と、ぜひなく唾をのんで見ていると、医者は鑿と槌をもって、かんかんと骨を鑿りはじめた。
 「痛い痛いっ。たまらん。やめてくれ」
 周瑜は、泣かんばかり、悲鳴を発した。医者は、弟子の男と、程普に向って、
 「こう、暴れられては、手術ができません。手脚を抑えていてくれ」
 と、その間も、こんこん木槌を振っていた。
 荒療治の結果はよかった。苦熱は数日のうちに癒え、周瑜はたちまち病床から出たがった。
 「まだまだ、そう軽々しく思ってはいけません。何しろ鏃には毒が塗ってありますからな。なにかに怒って、気を激すと、かならず骨傷と肉のあいだから再び病熱が発しますよ」
 医者の注意を守って、程普はかたく周瑜を止めて中軍から出さなかった。また諸軍に下知して、「いかに敵が挑んできても、固く陣門を閉ざして、相手に出るな」と、厳戒した。
 城兵は以来ふたたび城中に戻って、いよいよ勢いを示し、中でも曹仁の部下牛金は、たびたびここへ襲せて来ては、
 「どうした呉の輩。この陣中に人はないのか。中軍は空家か。いかに敗北したからとて、いつまで、ベソをかいているのだ。いさぎよく降伏するなり、然らずんば、旗を捲いて退散しろ」と、さんざんに悪口を吐きちらした。
 けれど、呉陣は、まるでお通夜のようにひッそりしていた。牛金はまた日をあらためてやって来た。そして、前にもまさる悪口雑言を浴びせたが、
 「静かに。静かに……」と、程普は、ただ周瑜の病気の再発することばかり怖れていた。
 牛金の来訪は依然やまない。来ては辱めること七回に及んだ。程普はひとまず兵を収めて、呉の国元へ帰り、周瑜の瘡が完全に癒ってから出直そうという意見を出したが、諸将の衆評はまだそれに一致を見なかった。かかる間に、城兵は、いよいよ足もとを見すかして、やがては曹仁自身が大軍をひきいて襲せてくるようになった。当然、いくら秘しても周瑜の耳に聞えてくる。周瑜も流石に武人、がばと病床に身を起き直して、
 「あの喊の声はなんだ」と、訊ねた。
 程普が、答えて、
 「味方の調練です」というと、なお耳をすましていた周瑜は、俄然、起ち上がって、
 「鎧を出せ。剣をよこせ」と、罵った。そして、「大丈夫たる者が、国を出てきたからには屍を馬の革につつんで本国に帰るこそ本望なのだ。これしきの負傷に、無用な気づかいはしてくれるな」
 と、云い放ち、遂に帳外へ躍り出してしまった。                                    まだ癒えきらない後ろ傷の身に鎧甲を着けて、周瑜は剛気にも馬にとびのり、自身、数百騎をひきいて陣外へ出て行った。
それを見た曹仁の兵は、「やッ周瑜はまだ生きていたぞ」と、大いに怖れて動揺した。
 曹仁も、手をかざして、戦場を眺めていたが、

 「なるほど、たしかに周瑜にちがいないが、まだ金瘡は癒っておるまい。およそ金瘡の病は、気を激するときは破傷して再発するという。一同して彼を罵り辱めよ」と、軍卒どもへ命令した。
 そこで、曹仁自身も先に立ち、
 「周瑜孺子。さき頃の矢に閉口したか。気分は如何。矛は持てるや」
 などと嘲弄した。
 彼の将士も、その尾についてさんざん悪口を吐きちらすと、忽ち、怒面を朱泥のようにして、周瑜は、
 「誰かある、曹仁匹夫の首を引き抜け」

 と叫び、自身も馬首を奮い立てて進まんとした。(253話)


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