三国志(212) 趙雲活躍 |  今中基のブログ

 行く先々、趙雲のすがたは煙の如く起っては散る兵団に囲まれた。馬蹄のあとには、無数の死骸が捨てられ、悍馬絶叫、血は河をなした。
 時に、一人の敵将が、背に張と書いた旗を差し、敢然、彼の道をふさいで、長い鎖の両端に、二箇の鉄球をつけた奇異な武器をたずさえて吠えかかってきた。それは驚くべき腕力と錬磨の技をもって、二つの鉄丸をこもごも抛げつけ、まず相手の得物をからめ取ろうとする戦法だった。
 「しまった」と、さしもの趙雲も、この怪武器には鎗を奪られ、さらに応接の遑もないばかり唸り飛んでくる二箇の鉄丸にたじたじと後ずさった。
(――今は強敵と戦って、功を誇っている場合ではない。若君のお身をつつがなく主君へお渡し奉るこそ大事中の大事)
 そう気づいたので趙雲は、急に馬を返して、張の猛撃を避けながら馳け出した。
 と、見て、張郃は、

 「口ほどもない奴、それでも音に聞ゆる趙雲子龍か。返せっ」
 と、悪罵を浴びせながらいよいよ烈しく追ってきた。
 趙雲の武運がつきたか、ふところにある阿斗の薄命か。――あッと、趙雲の声が、突然、埃につつまれたと思うと、彼の体は、馬もろとも、野の窪坑におち転んでいた。

  「得たりや」と、張郃はすぐ馬上から前かがみに、一端の鉄丸を抛りこんだ。ところが、鉄丸は趙雲の肩をそれて坑口の土壁にぶすッと埋まった。
 次の瞬間に、張郃の口から出た声は、ひどく狼狽した叫びだった。粘土質の土壁に深く入ってしまった鉄丸は、いかに彼の腕力をもって鎖を引っ張っても、容易に抜けないからであった。
 その隙に、趙雲は躍り立って、
  「天この若君を捨てたまわず、われに青の剣を貸す!」
 と、歓喜の声をあげながら、背に負う長剣を引き抜くやいな、張郃の肩先から馬体まで、一刀に斬り下げて、すさまじい血をかぶった。
 後に、語り草として、世の人はみなこういった。
  (――その折り、坑のうちから紅の光が発し、張郃の眼がくらんだ刹那に趙雲は彼を仆した。これみな趙雲のふところに幼主阿斗の抱かれていたためである。やがて後に蜀の天子となるべき洪福と天性の瑞兆であったことは、趙雲の翔ける馬の脚下から紫の霧が流れたということを見てもわかる)
 しかし、事実は、紫の霧も、紅の光も、青釭の剣があげた噴血であったにちがいない。けれどまた、彼の超人的な武勇と精神力のすばらしさは、それに蹴ちらされた諸兵の眼から見ると、やはり人間業とは思えなかったのも事実であろう。紅の光! ――それは忠烈の光輝だといってもいい。紫の霧! ――それは武神の剣が修羅の中にひいて見せた愛の虹だと考えてもいい。
 ともあれ、青釭の剣のよく斬れることには、趙雲も驚いた。この天佑と、この名剣に、阿斗はよく護られて、ふたたび千軍万馬の中を、星の飛ぶように、父玄徳のいるほうへ、またたくうちに翔け去った。
 この日、曹操は景山の上から、軍の情勢をながめていたが、ふいに指さして、
 「曹洪、曹洪。あれは誰だ。まるで無人の境を行くように、わが陣地を駆け破って通る不敵者は?」
 と、早口に訊ねた。
 曹洪を始め、そのほか群将もみな手を眉にかざして、誰か彼かと、口々に云い囃していたが、曹操は、焦れったがって、
 「早く見届けてこい」と、ふたたび云った。
 曹洪は馬をとばして、山を降ると、道の先へ駆けまわって、彼の近づくのを見るや、
 「やあ。敵方の戦将。ねがわくば、尊名を聞かせ給え」と、呼ばわった。
 声に応じて、
 「それがしは、常山の趙子龍。――見事、わが行く道を、立ちふさがんとせられるか」
 と、青の剣を持ち直しながら趙雲は答えた。   
 曹洪は、急いで後へ引っ返した。そして曹操へその由を復命すると、曹操は膝を打って、
 「さては、かねて聞く趙子龍であったか。敵ながら目ざましい者だ。まさに一世の虎将といえる。もし彼を獲て予の陣に置くことができたら、たとえ天下を掌に握らないでも、愁いとするには足らん。――早々、馬をとばして、陣々に触れ、趙雲が通るとも、矢を放つな、石弩を射るな、ただ一騎の敵、狩猟するように追い包み、生け擒ってこれへ連れてこいと伝えろ!」
 鶴の一声である。諸大将は、はっと答えて、部下を呼び立てた。――たちまち見る、十数騎の伝令は、山の中腹から逆落しに駆けくだると、すぐ八方の野へ散って馬けむりをあげて行く。

 真の勇士、真の良将を見れば、敵たることも忘れて、それを幕下に加えようとするのは、由来、曹操の病といっていいほどな持ち前である。
 彼の場合は、士を愛するというよりも、士に恋するのであった。その情熱は非常な自己主義でもあり、盲目的でもあった。さきに関羽へ傾倒して、あとではかなり深刻に後悔の臍を噛んでいるはずなのに、この日また常山の子龍と聞いて、たちまち持ち前の人材蒐集慾をむらむらと起したものであった。
 趙雲にとって、また無心の阿斗にとって、これもまた天佑にかさなる天佑だったといえよう。
 行く先々の敵の囲みは、まだ分厚いものだったが、趙雲は甲の胸当の下に、三歳の子をかかえながら、悪戦苦闘、次々の線を駆け破って――敵陣の大旆を切り仆すこと二本、敵の大矛を奪うこと三条、名ある大将を斬り捨てることその数も知れず、しかも身に一矢一石をうけもせず、遂に、さしもの曠野をよぎり抜けて、まずはほっと、山間の小道までたどりついた。
 するとここにも、鍾縉、鍾紳と名乗る兄弟が、ふた手に分かれて陣を布いていた。
 兄の縉は、大斧をよくつかい、弟の紳は方天戟の妙手として名がある。兄弟しめし合わせて、彼を挟み討ちに、
 「のがれぬ所だ。はやく降れ」と喚きかかった。
 さらに、張遼の大兵、許チョの猛部隊も、彼を生け擒りにせんものと、大雨のごとく野を掃いて追ってきた。
 「――あれに追いつかれては」
 と、趙雲も今は、死か生かを、賭するしかなかった。
 おそらく彼にしても、この二将を斃したのが最後の頑張りであったろう。前後して縉と紳の二名を斬りすてたものの、気息は奄々とあらく、満顔全身、血と汁にまみれ、彼の馬もまたよろよろに成り果てて、からくも死地を脱することができた。
 そしてようやく長坂坡まで来ると、彼方の橋上に、今なおただ一騎で、大矛を横たえている張飛の姿が小さく見えた。
 「おおーいっ。張飛っ」
 思わず声を振りしぼって彼が手をあげた時である。執念ぶかい敵の一群は、もう戦う力もない趙雲へふたたび後ろから襲いかかった。「救えっ、救えっ張飛。おれを助けろっ――」
 さすがの趙雲も、声あげて、橋のほうへ絶叫した。

 馬は弱り果てているし、身は綿のように疲れている。しかも今、その図に乗って、強襲してきたのは、曹軍の驍将文聘と麾下の猛兵だった。
 長坂橋の上から、小手をかざして見ていた張飛は、月にうそぶいていた猛虎が餌を見て岩頭から跳びおりて来るように、
 「ようしっ! 心得た」
 そこに姿が消えたかと思うと、はや莫々たる砂塵一陣、駆けつけてくるや否、
 「趙雲趙雲。あとは引受けた。貴様はすこしも早く、あの橋を渡れっ」と、吠えた。
 たちまち修羅と変るそこの血けむりを後にして、趙雲は、
 「たのむ」
 と一声、疲れた馬を励まし励まし長坂橋を渡りこえて、玄徳の休んでいる森陰までやっと駆けてきた。
 「おうっ、これに――」
 と、趙雲は、味方の人々を見ると、馬の背からどたっとすべり落ちて、その惨澹たる血みどろな姿を大地にべたと伏せたまま、まるで暴風のような大息を肩でついているばかりだった。
 「オッ、趙雲ではないか。――して、そのふところに抱えているのは何か」
 「阿斗公子です……」           
 「なに、わが子か」
 「おゆるし下さい。……面目次第もありません」
 「何を詫びるぞ。さては、阿斗は途中で息が絶えたか」
 「いや……。公子のお身はおつつがありません。初めのほどは火のつくように泣き叫んでおられましたが、もう泣くお力もなくなったものとみえまする。……ただ残念なのは糜夫人のご最期です。身に深傷を負うて、お歩きもできないので、それがしの馬をおすすめ申しましたが、否とよ、和子を護ってたもれと、ひと声、仰せられながら、古井戸に身を投げてお果て遊ばしました」
 「ああ、阿斗に代って、糜は死んだか」
 「井には、枯れ草や墻を投げ入れて、ご死骸を隠して参りました。その母の御霊が公子を護って下されたのでしょう、それがしただ一騎、公子をふところに抱き参らせ、敵の重囲を駆け破って帰りましたが、これこのとおりに……」
 と、甲の胸当を解いて示すと、阿斗は無心に寝入っていて、趙雲の手から父玄徳の両手へ渡されたのも知らずにいた。
 玄徳は思わず頬ずりした。あわれよくもこの珠の如きものに矢瘡ひとつ受けずにと……われを忘れて見入りかけたが、何思ったか、
 「ええ、誰なと拾え」
 と云いながら、阿斗の体を、のように草むらへほうり投げた。
 「あっ、何故に?」
 と、趙雲も諸大将も、玄徳の心をはかりかねて、泣きさけぶ公子を、大地からあわてて抱き取った。
 「うるさい、あっちへ連れて行け」
 玄徳は云った。  さらにまた云った。

  「思うに、趙雲のごとき股肱の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい。……それにここは戦場である。凡児の泣き声はなおさら凡父の気を弱めていかん。故にほうり捨てたまでのことだ。諸将よ、わしの心を怪しんでくれるな」
  「…………」
 趙雲は、地に額をすりつけた。越えてきた百難の苦も忘れて、この君のためには死んでもいいと胸に誓い直した。原書三国志の辞句を借りれば、この勇将が涙をながして、
  (肝脳地にまみるとも、このご恩は報じ難し)
 と、再拝して諸人の中へ退がったと誌してある。(212話)


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