三国志(204) 劉表の死 |  今中基のブログ

 曹操みずから、許都の大軍を率いて南下すると、頻々(ひんぴん)、急を伝えてくる中を、荊州の劉表は、枕も上がらぬ重態をつづけていた。
 「御身と予とは、漢室の同宗、親身の弟とも思うているのに……」
 病室に玄徳を招いて、彼は、きれぎれな呼吸の下から説いていた。
 「予の亡い後、この国を、御身が譲りうけたとて、誰が怪しもう。奪ったなどといおう。……いや、いわせぬように、予が遺言状をしたためておく」
 玄徳は、強(た)って辞した。          
 「せっかくの尊命ですが、あなたにはお子達がいらっしゃいます。なんで私がお国を継ぐ必要などありましょう」
 「いや、その孤子(みなしご)の将来も、御身に託せば安心じゃ。どうかあの至らぬ子らを扶け、荊州の国は御身が受け継いでくれるように」
 遺言にひとしい切実な頼みであったが、玄徳はどうしても受けなかった。

 孔明は後にその由を聞いて、
 「あなたの律義は、かえって、荊州の禍いを大にしましょう」と、痛嘆した。劉表 玄徳 孔明
 その後、劉表の病は重(おも)るばかりな所へ、許都百万の軍勢はすでに都を発したと聞えてきたので、劉表は気魄もおののき飛ばして、遺言の書をしたためて後事を玄徳に頼んだ。――御身が承知してくれないならば、嫡子の劉琦を取立てて荊州の主に立ててくれよというのであった。
 蔡夫人は、穏やかならぬ胸を抱いた。彼女の兄蔡瑁や腹心の張允も、大不満を含んで、早くも、
「いかにして、を排し、劉琮の君を立てるか」を、日夜、ひそひそ凝議(ぎょうぎ)していた。
  ――とも知らず、劉表の長男劉琦は父の危篤を聞いて、遠く江夏の任地から急ぎ荊州へ帰ってきた。
 「父の看護(みとり)につこうものと、はるばる江夏から急いできた劉 なるぞ。城門の者、番の者、ここを開けい。通してくれよ」
 すると、門の内から蔡瑁は声高に答えた。     
 「父君のご命をうけて、国境の守りに赴かれながら、無断に江夏の要地をすてて、ご帰国とは心得ぬお振舞い。いったい誰のゆるしをうけてこれに来られたか。軍務の任の重きことをお忘れあったか。たとえご嫡子たりともここをお通しするわけには参らん。――疾(と)く疾くお帰りあれ、お帰りあれ」
「その声は、蔡瑁伯父ではないか。せっかく遠路を参ったのに、門を入れぬとは無情であろう。すぐ江夏へ帰るほどに、せめて父君にひと目会わせてくれい」
 「ならぬ!」

 と、伯父の権を、声に加えて、蔡瑁はさらにこッぴどくいって、追い払った。
 「病人にせよ、会えばお怒りときまっている。病を重らすだけのことだ。さすれば孝道にも背くことに相成ろう。不孝をするため、わざわざ来られたわけでもあるまい!」
 劉琮はややしばらく門外にたたずんで哭(な)き声をしのばせていたが、やがてしおしおと馬をかえして立ち去った。


 秋八月の戊申(つちのえさる)の日、劉表は、ついに臨終した。 蔡夫人、蔡瑁、張允などは、偽の遺言書を作って、 =荊州の統(とう)は、弟劉琮を以て継がすべし、 と披瀝した。蔡夫人の生んだ二男劉琮は、その時まだ十四歳であったが、非常に聡明な質だったので、宿将幕官のいるところで、或る折、
 「亡父君のご遺言とはあるが、江夏には兄上がいるし、新野には外戚の叔父(しゅくふ)劉玄徳がいる。もし兄(このかみ)や叔父(しゅくふ)がお怒りの兵を挙げて、罪を問うてきたら何とするぞ」
 と、質問しだしたので、蔡夫人も蔡瑁も、顔色を変えてあわてた。 すると、末席にいた幕官(ばっかん)の李珪という者が、劉琮の言へ即座にこたえて、
 「おう若君、よくぞ仰せられました。実(げ)に天真爛漫、いまの君のおことばこそ、人間の善性というものです。君臣に道あり、兄弟に順あり、お兄君をしのいでお継ぎになるなど、もとより逆の甚だしいものです。いそぎ使いを馳せて江夏より兄君を迎えられ、国主とお立て遊ばし、玄徳を輔佐としてまず内政を正し、しかる後、北は曹操を防ぎ、南は孫権にあたり、上下一体となるのでなければ、この荊州の滅乱はまぬかれません!」と、はばかる色もなく直言した。
 蔡瑁は、赫怒(かくど)して、黙れっ!これへ出ろ、首を切り取ってやる。
 「みだりに舌をうごかして、故君のご遺言を辱め、部内の人心を攪乱する賊臣め。黙れっ、黙りおろうっ」と、大喝しながら、武士と共に、李珪のそばへ馳け寄って、「黙れっ、」と、引きずりだした。
 李珪は悪びれずになおも、
 「国政にあずかる首脳部の方々からして、順をみだし、法をやぶり、何とて他国の侵攻を防ぎ得ましょうや。この国の亡ぶは眼に見えている」と、叫んでやまなかったが、とたんに蔡瑁が抜き払った剣の下に、あわれその首は斬り落されていた。

 死屍は市(まち)の不浄墳に取り捨てられたが、市人は伝え聞いて、涙を流さぬはなかったという。
 襄陽の東四十里、漢陽の荘麗なる墓所に、故劉表の柩は国葬された。蔡氏の閥族は、劉琮を国主として、これから思うままに政をうごかしたが、時まさに未曾有の国難の迫っている折から、果たしてそんな態勢で乗り切れるかどうか、心あるものは危ぶんでいた。
 蔡夫人は、劉琮を守護して、軍政の大本営を襄陽城に移した。
 時すでに、曹操の大軍は刻々南下して、
 「はや宛城(えんじょう)に近し!」とさえ聞えてきたのである。(204話)

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