三国志(124) 劉備玄徳、曹操孟徳を欺く |  今中基のブログ

 皇叔、改まって、予に願いとは、何であるか」
 「それがしに、丞相の一軍をおかし賜わりたいのであります」
 「わが一軍をひきいて、君はそもどこへ赴こうとするか」
 「いま満寵が語るを聞けば、淮南の袁術は自己の僭称せる皇帝の名と共に、持つところの伝国の玉璽をも、兄袁紹へ譲与して、内にはふたり力をあわせ、外には河北、淮南を一環に合体していよいよ中原へ羽翼を伸張しきたらんとする由。――これは丞相にとっても、捨ておきがたい兆しではありますまいか」
 「もとより由々しい大事だが――それについて、君に何かの対策があるか?」

 「袁術が淮南をすてて河北に行くには、かならず徐州の地を通らねばなりません。それがし今、一軍を拝借して、急に馳せむかい、彼の半途を襲えば、かならず丞相の憂いを除き、ふたつには袁紹が帝位をのぞむ僭上を懲らし、すべて彼らが企むところの野心を未然に粉砕してお目にかけまする」
 「君にしては、常にない勇気であるが、どうして君はそう俄に思い立たれたか」
 「袁術、袁紹を不利ならしめれば、いささか恩友の霊も、なぐさめ得られようかと思いまして」
 「なるほど、君の信義もあるのか。袁紹は恩友のかたきでもあれば、――というわけだな。よろしい、明朝、相伴うて天子に謁し、君の望みを奏上しよう。君が赴いてくれれば予も気づよい」
 翌日、朝廷に出て、曹操から右のよしを帝に達すると帝は御涙をうかべて、玄徳を宮門まで見送られた。玄徳は、将軍の印を腰におび、朝をさがって相府に立寄った。そして曹操から、五万の精兵と二人の大将を借りうけるや、取るものも取りあえず、許都の邸館をひき払って出発した。
 「なに、劉皇叔が、許都を立ったと?」
 驚いたのは、かの董承である。――董承は、十里亭まで、馬をとばして、玄徳を追いかけてきた。
 玄徳は、董承にむかって、
 「国舅、安んじ給え。日頃の約を忘れるわれに非ず。都を去るとも、わが心は、寸時も天子のお側を離るることなからん。 ただ、かねての大事を、曹操に気どられぬよう、御身をよく慎まれよ」と、諭して別れた。そして彼はなお急ぎに急いで昼夜、行軍をつづけた。 関羽、張飛はあやしんで、
 「いつにもない家兄の急。何故そのように、あわてふためいて、都をば出られるので?」
 訊くと、玄徳は、
 「今だから、いうが、われ許都にあるうちは、一日たりとも、無事に安んじていたことはない。許都にいた間の身は、籠の中の鳥、網の中の魚にもひとしい生命であった。もし、ひょッとでも曹操の気が変ったら、いつ何時彼のために死を受けようも知らなかった。……ああようやく、都門を脱して、今は魚の大海に入り、鳥の青天へ帰ったようなここちがする」と、心から述懐した。
 そう聞いて関羽、張飛は、
 「実にも」と今さらの如く、玄徳の心労にふかく思いを打たれた。――無事と見えた日ほど玄徳の心労はかえって多かったのである。
 ―― 一方、その後で。
 諸軍の巡検から許都に帰ってきた郭嘉は相府に出て、初めて玄徳の離京と、大軍を借りうけて行った事実を知り、
 「もってのほか!」と愕いて、すぐ曹操に会い、口を極めて、その無謀をなじった。
 「何だって、虎に翼を貸し、あまつさえ、野に放ったのですか。一体あなたは、玄徳をすこし甘く見過ぎていませんか」とまで彼は切言した。「……そうかな?」
 曹操の面には動揺が見えだした。
 「そうですとも」
 郭嘉は、さらに痛言した。
 「露骨にいえば、あなたは玄徳に一ぱい喰わされた形です」
 「どうして」
 「玄徳は、あなたが観ているようなお人よしの凡物ではありません」
 「いや、予も初めはそう考えていたが」
 「そうでしょう、その玄徳が、何でにわかに、菜園に肥桶をになったり、鼻毛をのばしていたかです。――丞相ほどな方が、どうして玄徳だけにはそうお甘いのでしょうか」
 「では彼が、予の軍勢を借りて、予のために袁術を敗らんといったのは嘘だろうか」
 「まんざら、嘘でもありますまい。けれど丞相のためなどと自惚れておいでになったら大間違いですぞ。彼の行動はあくまで彼のためでしかありません」
 「しまった……」
 曹操は足ずりして、悔いをくちびるに噛み、これわが生涯の過ち、あの雷怯子めにしてやられたり矣――と長嘆した。
 時に帳外に声あって、
 「丞相。何をか悔い給うぞ。それがしが一鞭に追いかけ、彼奴めをこれへ生捕って参り候わん」
 と、いう者がある。
 諸人、これを見れば、虎賁校尉許褚である。
「許褚か。いしくも申したり。急げ!」
 軽騎の猛者五百をすぐって、許褚は疾風のごとく玄徳を追いかけた。 馳け飛ぶこと四日目、追いついて、許褚、玄徳の双方は、各〻の兵をうしろにひかえて馬上のまま会見した。
 玄徳はいう。
 「校尉。なにとて、ここへは来給える?」
 許褚は答えて、
 「丞相の命である。兵をそれがしに渡し、直ちに都へ引っ返されい」

 「こは思いがけぬこと。われは天子にまみえて詔詞を賜い、また親しく丞相の命をも受けて、堂々と都を立って来たものである。しかるに今、後よりご辺をさし向けて兵を返せとは。ははあ、わかった。さては汝も、郭嘉、程などの輩と同腹のいやしき物乞いの仲間か」
 「なに、物乞いの徒だと」
 「さなり! 怒りをなす前に、まず自身を質せ。われ出発の前、郭嘉、程昱の両名が、しきりと賄賂をもとめたが、相手にもせず拒んだゆえ、その腹いせに、丞相へ讒言して、ご辺をして追わしめたものと思わるる……あら笑止、物乞いの舌さきにおどらせられて、由々しげに使いして来た人の正直さよ」
 玄徳は、呵々と笑って、
 「それとも、腕ずくでも、われを引き戻さんとなれば、われに関羽、張飛あり、ご挨拶させてもよろしい。しかし、丞相のお使いを、首にして返すも忍びぬ心地がする。――ご辺もよくよく賢慮あって、右の趣を、よく相府に伝え給え」
 云いすてると、玄徳は、大勢の中へ姿をかくし、その軍勢はすぐ歩旗整々、先へ行ってしまった。 許褚は、ほどこす手もなく、むなしく都へ引っ返して、ありのままを曹操へ復命した。
 曹操は憤って、すぐ郭嘉をよびつけ、賄賂のことを厳問した。
 郭嘉は、色をなして、
 「何たることです。手前のいうそばから、また玄徳めに欺かれて、手前までを邪視なされるとは」
 すると曹操もすぐ覚ったらしく、快然と笑って、郭嘉の顔いろをなだめた。
 「今のは一場の戯れだよ。月日は呼べどかえらず、過失は追うも旧にもどらず。もう君臣の仲で愚痴はやめにしよう。……愚かだ、愚かだ。むしろ一杯を挙げて新に備え、後日、きょうのわが失策を百倍にして玄徳に思い知らせてくれん。 郭嘉、楼へのぼって酒を酌もうではないか」(124話)

― 次週125話へ続く―

 

本稿著者からのお願いです、ぜひご検討ください。