三国志(119) 董承 玄徳の参加を果たす |  今中基のブログ

 昼は人目につく。董承は或る夜ひそかに、密詔をふところに秘めて頭巾に面をかくして、
 「風雅の友が秦代の名硯を手に入れたので詩会を催すというから、こよいは一人で行ってくる」
 と、家人にさえ打明けず、ただ一人驢にまたがって、玄徳の客館へ出向いて行った。
 それも、ふと曹操の密偵にでも見つかって、あとを尾行られてはならぬと、日頃、詩文だけの交わりをしている風雅の老友を先に訪ね、深更まで話し込んで夜も遅く気がついたように、
 「やあ、思わず今夜は、はなしに実がいって、長座いたした。どうも詩や画のはなしに興じていると、つい時も忘れ果てて」 などと云いながら、あわててその家を辞した。
そこは郊外なので、玄徳の客舎へ来たのは、もう四更に近かった。
 深夜。しかも、時ならぬ人の訪れに「何ごとか」と、玄徳もあやしみながら彼を迎え入れた。
 が、――彼は、およそ客の用向きを察していたらしく、家僕が客院に燭をともしかけると、
 「いや、奥の小閣にしよう」と、自ら董承をみちびいて、庭づたいに、西園の一閣へ案内した。
 許都へ来た当座は、曹操の好意で、相府のすぐ隣の官邸を住居としてあてがわれていたが、
 「ここは帝都の中心で、田舎漢の住居には、あまり晴れがましゅうござれば」
 と、今のところへ引移っていたのだった。
 「何もありませんが」と、すぐ青燈の下に、小酒宴の食器や杯がならべられた。それらの陶器といい室の飾りといい、清楚閑雅な主の好みがうかがわれて、董承はもう、この人ならではと思いこんでいた。話しの末に「時ならぬご来駕は、何事で御座いますか」玄徳からたずねた。

 董承はあらたまって、
 「余の儀でもありませんが、許田の御猟の折、義弟関羽どのが、すでに曹操を斬ろうとしかけたのを、あなたが、そっと眼や手をもって、押し止めておいでになったが、その仔細を伺いたいと思って参上したわけです」
 玄徳は、色を失った。自分の予感とちがって、さては曹操の代りに、詰問に来たのかと思われたからである。 ――が、隠すべきことでもなく、隠しようもない破目と、玄徳は心をきめた。
 「舎弟の関羽は、まことに一徹者ですから、あの日、丞相のなされ方が、帝威をおかすものと見て、一時に憤激したものでしょう。……や、や? ……国舅、あなたは何故、わたくしの言を聞いて泣かれるのですか」
 「いや、おはずかしい。実は今のおことばを伺って、今もし、関羽どののような心根の人が幾人かいたならば……と、つい愚痴を思うたのでござる」
 「府に、曹丞相あり、朝にあなたのような輔佐があって、世は泰平に治まっているではありませんか。なにを憂いとなされるか」
 「皇叔――」
 董承は濡れた瞼をあげて、屹っといった。
 「御身は、わしが曹操にたのまれて、肚でも探りにきたものと、ひそかに要心しておられようが。……疑うをやめ給え。ご辺は天子の皇叔、此方もまた外戚の端にあるもの、なんで二人のあいだに詐りをさし挟もう。今、明らかに、実を告げる。これを見てください」
 董承は、席を改め、口を嗽いして、密詔を示した。
 燈火をきって、それへ眸をじっと落していた玄徳は、やがてとめどもなくながれる涙を両手でおおってしまった。悲憤のあまり彼の鬢髪はそそけ立って燈影におののき慄えていた。
 「おしまい下さい」 涙をふき、密詔を拝して、玄徳はそれを、董承の手へ返した。
 「国舅のご胸中、およそわかりました」
 「ご辺も、この密詔を拝して、世のために涙をふるって下さるか」
 「もとよりです」
 「かたじけない」と、董承は、狂喜して、幾たびか彼のすがたを拝した後、
 「では、さらにもう一通、これをごらん願いたい」と、巻をひらいた。
 同志の名と血判をつらねた義状である。
本頭に、車騎将軍董承。 第二筆に、長水校尉种輯。 第三には、昭信将軍呉子蘭。 第四、工部郎中王子服。第五、議郎呉碩などとあって、その第六人目には、西涼之太守、馬騰。
 と、ひときわ筆太に署名されてある。
 「おう、もはやこれまでの人々をお語らいになりましたか」
 「世はまだ滅びません。たのもしき哉、濁世のうちにも、まだ清隠の下、求めれば、かくの如き忠烈な人々も住む」
 「この地上は、それ故に、どんなに乱れ腐えても、見限ってはいけません。わたくしはいつもそれを信じている。ですから、どんなに悪魔的世相があらわれても、決して悲観しません。人間はもう駄目だとは思いません。むしろ、見えないところに、同じ思いを抱いている草間がくれの清冽をさがし、人間の狂気した濁流をいつかは清々淙々たる永遠の流れに化さんことの願望をふるい起すのが常であります」
「皇叔。おことばを伺って、この老骨は、実にほっとしました。この年して初めてほんとの人間と天地の不朽を知ったここちがします。ただいかにせん、自分には乏しい力と才しかありません。お力をかして賜わるか」
 「仰せまでもない儀。――ここに名を連ねる諸公がすでに立つからには、玄徳もなんで犬馬の労を惜しみましょうや」彼は起って、自身、筆硯を取りに行った。
 その時。
 小閣の外、廊や窓のあたりは、かすかに微光がさし始めていた。
 夜は明けかけていたのである。外廊の廂からぽとぽと霧の降る音がしていた。そこで何者か、声を出して泣いている人影があった。
 玄徳は見向きもしない。けれど董承は、ぎょっとして、廊をさしのぞいた。
 見れば、玄徳の護衛のため、夜どおし外に佇立していた臣下であった。いや義弟の関羽と張飛の二名だった。抱き合って、うれし泣きに、泣いている様子なのである。
 「……あ、二人も、ここの密談を洩れ聞いて」
 董承は、羨ましいものさえ覚えた。義状に名をつらねた人々の誓も、もし玄徳と義弟たちの間のように、濃くふかく結ばれたら、必ず大事は成就するが――と思った。

 硯を持って、玄徳は静かに、彼の前へもどってきた。
 そして、同志の名と血判をつらねた義状、車騎将軍董承。 第二筆に、長水校尉种輯。
 第三には、昭信将軍呉子蘭。第四、工部郎中王子服。第五、議郎呉碩などとあり、その第六人目には、西涼之太守、馬騰と書かれている。玄徳は義状の第七筆に、左将軍劉備と署名した。
 筆をおいて、
 「決して生命を惜しむのではありませんが、これだけはかたく奉じていただきたい。ゆめ、軽々しく、動かないことです。時いたらぬうちに軽挙妄動するの愚を戒めあうことです」
 暁の微光が、そういう玄徳の横顔を見ているまに、鮮やかにしていた。遠く、鶏鳴が聞えた。
 「……では、いずれまた」客は、驢に乗って朝霧のなかを、ひそかに帰って行った。(119話)

― 次週120話へ続く―