侍郎王子服は、董承の無二の親友であった。朝廷に仕える身は、平常外出も自由でないが、その日、小暇を賜わったので、日頃むつまじい董承の屋敷を訪れ、家族の中にまじって、終日、奥で遊んでいた。
「ご主人はどうしましたか」
夕方になっても、董承が顔を見せないので、王子服は、すこし不平そうにたずねた。
家族のひとりが答えて、
「奥にいらっしゃいますけれど、先日から調べ物があると仰言て引き籠ったきり、どなたにもお会いしないことにしております」と、いった。「それは、変だな。一体、何のお調べ事ですか」
「何をお調べなさるのか、私たちには分りませんが」
「そう根気をつめては、お体にも毒でしょう。小生が参って、みんなと共に、今夜は笑い興じるようにすすめてきましょう」
「いけません。王子服様、無断で書斎へ行くと怒られますよ」
「怒ったってかまいません。親友の小生が室をうかがったといって、まさか絶交もしやしないでしょう」
自分の家も同様にしている王子服なので、家人の案内もまたず主人の書院のほうへ独りで通って行った。家族たちも、ちょっと困った顔はしたものの、ほかならぬ主人の親友なので、晩餐の支度にまぎれたまま打捨てておいた。
主人の董承は、先頃から書院に閉じこもったきり、どうしたら曹操の勢力を宮中から一掃することができるか、帝のご宸襟を安んじてご期待に応えることができようか。朝念暮念、曹操を亡ぼす計策に腐心、今も、書几によって思い沈んでいた。
「……おや。居眠っておられるのか?」
そっと、室をうかがった王子服は、そのまま彼のうしろに立って、何を肘の下に抱いているのかと、書几の上をのぞいてみた。
血で書いた白絖の文のうちに「朕」という文字がふと眼にうつった。王子服が、はっとしたとたんに、董承は、誰やら背後に人のいる気はいを感じて、何気なく振向いた。
「あっ、君か」びっくりしたように、彼はあわてて几上の一文を袂の下にしまいかくした。王は、それへ眼をとめながら、
「――何ですか、今のは?」と、軽く追及した。
「いや、べつに……」 「たいそうお疲れのようにお見うけされますが」
「ちと、ここ毎日、読書に耽っているのでな」 「孫子の書ですか」
「えっ?」 「お隠しなさってもいけません。お顔色に出ています」
「いや、疲労じゃよ」
「そうでしょう、ご心労むりはない。間違えば、朝門は壊え、九族は滅ぼされ、天下の大乱ですからな」
「げっ……。君は。……君はいったい、何を戯れるのじゃ」
「国舅。もし小生が、曹操のところへ、訴人に出たらどうしますか」
「訴人に?」 「そうです。小生は今日まで、あなたとは刎頸の交わりを誓ってきたものとのみ思っていました。ところが何ぞ知らん、あなたは小生に水くさい秘し事を抱いておいでになる」
「…………」
「無二の親友と信じてきたのは、小生だけのうぬ惚れでした。訴人します。――曹操のところへ」
「あっ、待ち給え」 董承は、彼の袖をとらえ、眼に涙をうかべて云った。
「もしご辺がそれがしの秘事を覚って、曹操へ訴え出るなら、漢室は滅亡するほかない。君も累代漢室のご恩をこうむった朝臣のひとりではないか。……どんな親密な仲であろうと、友への怒りは私怨である。君は、私怨のために大義を忘れるような人ではなかったはずだが」
親友であるが、相手の答えによっては、刺しちがえて死なんともするような董承の血相であった。王子服は静かに笑って、
「安んじて下さい。小生とても、なんで漢室の鴻恩を忘れましょうや。今いったのは戯れです。――だが、尊台が大事を秘すのあまり、小生にもかくして、ただお独りで憂い窶れておられることは、親友として不満でなりません」と、いった。
董承は、ほっと、胸をなでおろしながら、彼の手をいただいて額に拝し、
「許し給え。決して君の心を疑っていたわけではないが、まだ自分は明らかな計策がつかないので、数日、混沌と思いわずらっていたわけです。――もし君も力をかして、わが大事に与してくれれば、それこそ天下の大幸というものだが」
「およそ貴憂は察しています。願わくば、一臂の力をお扶けして、義を明らかにしてみせましょう」
「ありがとう。今は何をかくそう。すべてを打明ける。うしろの扉をしめてくれたまえ」
董承は襟を正した。そして彼に示すに、帝の血書の密詔を以てし、声涙共にふるわせながら、意中を語り明かした。
王子服も、共々、熱涙をうかべて、しばし燭に面をそむけていたが、やがて、
「よく打明けてくださいました。よろこんで義に与します。誓って、曹操を討ち、帝のお心を安んじましょう」と、約した。
そこで二人は、密室の燭をきって、改めて義盟の血をすすりあい、後、一巻の絹を取出して、まずそれに董承が義文を認めて署名する。 次いで王子服も姓名を書き載せて、その下に血判した。
「これで、君もわれとの義盟にむすばれたが、なお、よい同志はないであろうか」
「あります。将軍呉子蘭は、小生の良友ですが、特に忠義の心の篤い人物です。義を以て語れば、必ずお力となりましょう」
「それは頼もしい。朝廟にも校尉、議郎呉碩の二人がある。二人とも漢家の忠良だ。吉い日をはかって、打明けてみよう」
夜も更けたので、王子服はそのまま泊ってしまった。そして翌る日も、主人の書斎で何事かひそかに話しこんでいたが、午頃、召使いがそこへ来客の刺を通じた。
「うわさをすれば影。よいところへ」と、董承は手を打った。
「誰ですか、お客は」 王子服がたずねると、
「ゆうべ君にもはなした宮中の議郎呉碩と校尉种輯じゃよ」 「連れ立って来たのですか」
「そうじゃ。君もよく知っているだろう」
「朝夕、宮中で会っています。――が、両名の本心を見るまで、小生は屏風の陰にかくれていましょう」
「それがいい」
客の二人は召使いの案内で通されてきた。 董承は出迎えて、
「やあ、ようお越し下すった。きょうは徒然のあまり読書に耽っていたところ、折からのご叩門、うれしいことです」
「読書を。それは折角のご静日を、お邪魔いたしましたな」
「何、書にも倦んでいたところじゃ。しかし、史はいつ読んでもおもしろいな」
「春秋ですか。史記ですか」 「史記列伝を」
「時に」と、呉碩が、はなしの穂を折って、唐突に云いだした。
「先ごろの御猟の日には、国舅もお供なされておりましたね」
「むむ、許田の御猟か」
「そうです。あの日、何かお感じになったことはございませんか」
計らずも、自分の問おうとする所を、客の方から先に訊ねられたので、董承はハッと眉をあらためた。……だがなお、相手の心は推し測れない。人のこころは読み難い。
董承はふかく用心して、
「いや、許田の御猟は、近来のご盛事じゃったな。臣下の我々も、久しぶり山野に鬱を散じて、まことに、愉快な日であった」
さりげなく答えると、呉碩、のふたりは、改まって、
「それだけですか」となじるようにいった。
「――愉快な日であったとは、国舅のご本心ではありますまい。われわれはむしろ今も痛恨を胆に銘じております。――なんで愉快な日であるものか。許田の御猟は、漢室の恥辱日です」
「なぜかの……」
「なぜかとお問いなさいますか。では国舅には、あの日の曹操の振舞いを、その御眼に、何とも思わずご覧なさいましたか」
「……すこし、声をしずかにし給え。曹操は、天下の雄、壁に耳ありのたとえ、もしそのような激語が洩れ聞えたら」
「曹操がなんでそんなに怖ろしいのですか。雄は雄にちがいありませんが、天の与さぬ奸雄です。われら、微力といえども、忠誠を本義とし、国家の宗廟を護る朝廷の臣から見れば、なんら、怖るるに足る賊ではありません」
「卿らは、そんなことを、本心からいわるるのか」
「もとよりこんなことは、戯れに口にする問題ではありますまい」
「だが、いかに痛恨してみても、実力のある曹操をどうしようもあるまいが」
「正義が味方です。天の加護を信じます。ひそかに、時を待って、彼の虚をうかがっていれば、たとい喬木でも、大廈高楼でも、一挙の義風に仆せぬことはありますまい。……実は、今日こそ、国舅のお胸を叩いて、真実の底をうかがいたいものと、ふたりして伺った次第です」
「国舅、あなたは先日、ひそかに帝のお召しをうけ、大廟の功臣閣にのぼられて、その折何か、直々に、特旨をおうけ遊ばしたでございましょうが。……ご隔意なく打明けてください。われわれとて、累代、漢の禄を喰んできた朝臣です」
この少壮な宮中の二臣は、つい声が激してくるのを忘れて、董承へ問い迫っていた。
――と、さっきから屏風のうしろにひそんでいた王子服は、ひらりと姿を現して、
「曹丞相を殺さんとなす謀叛人ども、そこを動くな。すぐ訴人してこれへ相府の兵を迎えによこすであろう」と、大喝した。
种輯、呉碩のふたりは、驚きもしなかった。冷ややかに王子服を振向いて、「忠臣は命を惜しまず、いつでも一死は漢にささげてある。訴人するならいたしてみろ」
と、剣に手をかけて、彼が背を見せたら、うしろから一撃に斬って捨てん――とするかのような眼光で答えた。
王子服と董承は、「いや、お心のほど、確と見とどけた」
と、同時にいって、ふたりの激色をなだめた。そして改めて密室に移り、試みた罪を謝して、
「これを見給え」と、帝の血書と、義文連判の一巻とを、それへ展べた。
种輯、呉碩は、
「さてこそ」と、血の御文を拝し、哭いて、連判に名をしるした。(117話)
―次週118話へ続く―