三国志(112) 曹操、呂布・陳宮を捕らえる |  今中基のブログ

 曹操は、侍者に起されて、暁の寒い眠りをさました。夜はまだ明けたばかりの頃である。
 「何か」と、帳を払って出ると、
 「城中より侯成という大将が降を乞うて出で、丞相に謁を賜りたいと陣門にひかえております」
 と、侍者はいう。侯成といえば、敵方でも一方の雄将と知っている。曹操はすぐ幕営に引かせて彼に会った。 侯成は脱出を決意した次第を話して、呂布の厩から盗んできた赤兎馬を献じた。
 「なに、赤兎馬を」曹操のよろこび方は甚だしかった。彼自身の立場こそ、実は進退きわまっていたところである。 窮すれば通ず。彼にとっては、天来の福音だった。で、曹操は特に、侯成をいたわって、いろいろと糺した。

 侯成はなお告げた。「同僚の魏続、宋憲の二人も、城中にあって、内応する手筈になっております。丞相にしてお疑いなく一挙に攻め給うならば、二人は城中に白旗を掲げ、直ちに、東の門を開いてお迎え申しましょう」
 曹操は、限りなく喜悦して、さらばとばかり直ちに、檄文を認めて、城中へ矢文を射させた。
 その文には、
  今、明詔ヲ奉ジテ呂布ヲ征ス、モシ大軍ヲ抗拒スル者アラバ満門悉ク誅滅セン
  モシ城内ノ上ハ将校ヨリ庶民ニ至ル迄ノ者、呂布ガ首ヲ献ゼバ、重ク官賞ヲ加エン
                            大将軍曹操・押字


 朝焼けの雲は紅々と城東の空にながれていた。同文の矢文が何十本となく射込まれたのを合図に、金鼓の響き、喊の声は、地を震わし、十数万の寄手は、一度に城へ攻めかかった。
 呂布は愕いて、早暁から各所の攻め口を駆けまわり、自身、督戦に当ったり、戟をふるって、城壁に近づく敵を撃退していた。
 ところへ、厩の者が、「昨夜、赤兎馬が、忽然と姿を消しました」と、訴えてきた。
 呂布は眉をひそめたが、
 「番人の怠っているすきに手綱を断って、搦手の山へのぼって草でも食っているのだろう。早く探してつないでおけ」と、罵った。
 前面の防ぎに、叱っているいとまもなかったのである。それほどこの日の攻撃は烈しかった。
 敵は、次々と、筏を組んで、濁水を越え、打ち払っても打ち退けてもひるまずによじ登ってくる。午の刻を過ぎる頃には、両軍の水つく屍に壁は泥血に染まり、濁水の濠も埋まるばかりに見えた。
 ようやく、陽も西に傾く頃、寄手は攻めあぐねて、やや遠く退いた。早朝から一滴の水も飲まず、食物もとらず奮戦をつづけていた呂布は、「ああ。……まずこれまで」
 と、ほっと、一息つくと共に、綿のように疲れた体を、一室の榻に倚せて、居眠るともなく、うつらうつらとしていた。
 ――と、彼の息を窺って、音もなく床を這い寄って来た一人の将校がある。魏続であった。 呂布のもたれている戟の柄が榻の下に見える。――魏続は手をのばして榻の下からその柄を強く引っ張った。居眠っていた呂布は、不意に支えをはずされたので、
 「――あっ」と、半身を前へのめらせた。
 「しめたっ」魏続が、奪った戟を後ろへほうるとそれを合図に、一方から宋憲が躍りだして、呂布の背をつきとばした。    
 「何をするっ」猛虎は床に倒れながら両脚で二人を蹴上げたが、とたんに魏続、宋憲の部下の兵がどやどやと室に満ちて、吠える呂布へ折重なって、やがて鞠の如く、縛り上げてしまった。「捕ったっ」
 「呂布を縛めた!」
 諸声あげて、反軍の将士が、そこでどよめきをあげた頃――城頭のやぐらでは、一味の者が、白旗を振って、
 「東門は開けり」と、寄手へ向って、かねての合図を送っていた。
 それっ――と曹操の大軍は、いちどに東の関門から城中へなだれ入ったが、用心深い夏侯淵は、「もしや敵の詭計ではないか」
 と、疑って、容易に軍をうごかさなかった。
 宋憲は、それと見て、
 「ご疑念あるな」と、城壁から彼の陣へ、大きな戟を投げてきた。
 見るとそれは呂布が多年戦場で用いていた画桿の大戟だった。
 「城中の分裂、今はまぎれもなし」
 と、夏侯惇も、つづいて関内へ駸入し、その余の大将も、続々入城する。城内はまだ鼎のわくがごとき混乱を呈していた。
 「呂将軍が捕われた」と伝わったので、城兵の狼狽は無理もなかった。去就に迷って殲滅の憂き目に会う者や、いち早く武器を捨て、投降する者や、右往左往一瞬はさながら地獄の底だった。
 中にも。
 高順、張遼の二将は、変を知るとすぐ、部隊をまとめて、西の門から脱出を試みたが、洪水の泥流深く、進退極まって、ことごとく生虜られた。 また。――南門にいた陳宮は、「南門を、死場所に」と、防戦に努めていたが、曹操麾下の勇将徐晃に出会って、彼もまた、捕虜の一人となってしまった。
 こうして、さしもの下も、日没と共に、まったく曹操の掌中に収められ、一夜明けると、城頭楼門の東西には、曹軍の旗が満々と、曙光の空にひるがえっていた。曹操は、主閣白門楼の楼台に立って、即日、軍政を布き人民を安んじ、また、玄徳を請じて、傍らに座を与え、
「いざ。降人を見よう」と、軍事裁判の法廷をひらいた。

 まず第一に、呂布が引立てられて来た。呂布は身長七尺ゆたかな偉大漢なので、団々と、巨大な鞠の如く縄をかけられたため、いかにも苦しげであった。 白門楼下の石畳の上に引据えられると、彼は階上の曹操を見上げて、
「かくまで、辱めなくてもよかろう。曹操、おれの縄目を、もう少しゆるめるように、吏へ命じてくれ」と、いった。
 曹操は苦笑をたたえて、
「虎を縛るに、人情をかけてはおられまい。――しかし、口がきけないでも困る。武士ども、もう少し手頸の縄をゆるめてやれ」
 すると、主簿の王必があわてて、遮った。
「滅相もない。呂布の猛勇は尋常な者とは違います。滅多に憐愍をかけてはなりません」
 呂布は、はったと王必を睨めつけて、
「おのれ、要らざる差し出口を」と、牙をむいて咬みつきそうな顔をした。
 そしてまた、眼を階下に並居る諸将に向けた。そこには魏続や侯成や宋憲など、きのうまで自分を主君と崇めていた者が、曹操の下に甘んじて居並んでいる。――呂布は、眼をいからして、その人々の顔を睨めまわし、
「汝らは、どの面さげて、この呂布に会えた義理か。わが恩を忘れたか」
 侯成は、あざ笑って、
「その愚痴は、日頃、将軍が愛されていた秘院の女房や寵妾へ仰ったらいいでしょう。われわれ武臣は、将軍から百杖の罰や苛酷な束縛は頂戴したおぼえはあるが、将軍の愛する婦女子ほどの恩遇もうけたためしはありません」と云い返した。
 呂布は、黙然と、うなだれてしまった。運命は皮肉を極む。時の経過に従って起るその皮肉な結果を、俳優自身も知らずに演じているのが、人生の舞台である。 陳宮と曹操の間なども、その一例といえよう。そもそも、陳宮の今日の運命は、そのむかし、彼が中牟の県令として関門を守っていた時、捕えた曹操を救けたことから発足している。 当時、曹操はまだ白面の一志士であって、洛陽の中央政府の一小吏に過ぎなかったが、董卓を暗殺しようとして果たさず、都を脱出して天下に身の置き所もなかったお尋ね者の境遇だった。
 それが、今は。
 かつての董卓をもしのぐ位置に登って大将軍曹丞相と敬われ、階下にひかれてきた敗将の陳宮を、冷然と見くだしているのであった。
 「…………」 陳宮は、立ったまま、じっと曹操の面を、しばらく見つめていた。
 (――もし、曹操を、そのむかし中牟の関門で助けなどしなかったら、今日の俺も、こんな運命にはなるまいに)と、その眼は、過去の悔みと恨みを、ありありと語っていた。
 「坐らぬかっ」 縄尻を持った武士に腰を蹴られて、陳宮は折れるが如く身を崩した。
 曹操は、階の上から、冷ややかに見て、
 「陳宮か。ご辺とは実に久しぶりの対面だ。その後は、恙ないか」
 「見た通りである。――恙なきや、との訊ねは、自己の優越感を満足させるために、此方を嘲弄することばと受取れる。相変らず、冷酷な小人ではある。嗤うにたえぬことだ」
 「小人とは、そちの如き者をいう。理智の小さな眼の孔からばかり人間を観るので、予の如き大人物を見損うのだ。――そのために、遂に、こういうことになったが何よりの実証ではないか」
 「いや、たとい今日、かかる辱をうけても、心根の正しくない汝についているよりはましだった。奸雄曹操ごとき者を見捨てたのは、自身、以て先見の明を誇るところで、寸毫、後悔などはしておらん」
「予を、不義の人物といいながら、しからばなぜ、呂布のような、暴逆の臣を扶けて、その禄を喰んできたか。君は、すこぶる愛嬌のある口頭正義派の旗持ちとみえる。口先だけの正義家で衣食の道は別だという誠にご都合のいい主義だ。いや笑止笑止」
 「だまれ」 陳宮は胸をそらして、
 「いかにも呂布は暗愚で粗暴の大将にちがいない。しかし彼には汝よりも多分に善性がある。正直さがある。すくなくも、汝のごとく、酷薄で詐言が多く、自己の才謀に慢じて、遂には、上をも犯すような奸雄では絶対にない」
 「ははは。理窟はどうにでもつく。だが、今日の事実をどう思うか。縄目にかけられた敗軍の将の感想を訊きたいものだが」

 「勝敗は、時の運だ。ただ、そこに在る人が、それがしの言を用いなかったために、この憂き目を見たに過ぎない」と、傍にうつ向いたままである呂布のすがたを、顔で指して、
 「さもなければ、やわか、汝ごときに敗れ去る陳宮ではない」と、傲然、云い放った。
 曹操は、苦笑して「時に、ご辺は今、自分の身をどうしようと思うか」と、訊ねた。
 陳宮は、さすがに、さっと顔いろに、感情をうごかして、
 「ただ、死あるのみ。早く首を打ち給え」と、いった。
 「なるほど、臣として忠ならず、子として孝ならず、死以外に、途はあるまい。しかしご辺には老母がある筈。――老母はいかにするつもりか」
 そういわれると、陳宮はにわかにうつ向いて、さんさんと落涙するのみだった。(112話) 

―次週へ続く―