三国志(109) 曹操出現 呂布窮す? |  今中基のブログ

 呂布は、櫓に現れて、「われを呼ぶは何者か」と、わざと云った。
 泗水の流れを隔てて、曹操の声は水にこだまして聞えてきた。
 「君を呼ぶ者は君のよき敵である許都の丞相曹操だ。――しかし、君と我と、本来なんの仇があろう。予はただご辺が袁術と婚姻を結ぶと聞いて、攻め下ってきたまでである。なぜならば、袁術は皇帝を僭称して、天下をみだす叛逆の賊である。かくれもない天下の敵である」
 「…………」 呂布は、沈黙していた。
 河水をわたる風は白く、蕭々と鳴るは蘆荻、翩々とはためくは両陣の旌旗。――その間一筋の矢も飛ばなかった。
 「予は信じる。君は正邪の見極めもつかないほど愚かな将軍ではないことを。――今もし戈を伏せて、この曹操に従うならば、予は予の命を賭しても、天子に奏して君の封土と名誉とを必ず確保しておみせしよう」「…………」
 「それに反し、この際、迷妄にとらわれて降らず、君の城郭もあえなく陥落する日となっては、もう何事も遅い、君の一族妻子も、一人として生くることは、不可能だろう。のみならず、百世の後まで、悪名を泗水に流すにきまっている。よくよく賢慮し給え」

 呂布は動かされた。それまで黙然と聞いていたが、やにわに手を振り上げ、
 「丞相丞相。しばらくの間、呂布に時刻の猶予をかし給え。城中の者とよく商議して、降使をつかわすことにするから」
傍にいた陳宮は、意外な呂布の返辞に愕然として跳び上がり、
 「な、なにをばかなことを仰っしゃるかっ」
 と、主君の口をふさぐように、突然、横あいから大音声で曹操へ云い返した。
 「やよ曹賊。汝は、若年の頃から口先で人をだます達人だが、この陳宮がおる以上、わが主君だけは欺かれんぞ。この寒風に面皮をさらして、無用の舌の根をうごかさずと、早々退散しろ」
 言葉の終った刹那、陳宮の手に引きしぼられていた弓がぷんと弦鳴りを放ち、矢は曹操の眉庇にあたってはね折れた。
 曹操は、くわっと眦をあげて、
 「陳宮ッ、忘るるな、誓って汝の首を、予の土足に踏んで、今の答えをなすぞ」
 そして左右の二十騎に向って、即時、総攻撃にうつれと峻烈に命じた。
 櫓の上から呂布はあわてて、
 「待ちたまえ、曹丞相。今の放言は、陳宮の一存で、此方の心ではない。それがしは必ず商議の上、城を出て降るであろう」
 陳宮は、弓を投げつけて、ほとんど喧嘩面になって云った。
「この期になって、なんたる弱音をはき給うことか。曹操の人間はご存じであろうに。――今、彼の甘言にたばかられて、降伏したが最後、二度とこの首はつながりませんぞ」
 「だまれっ、やかましいっ。汝一存を以てなにを吠ゆるか」
 呂布も躍起となって、云い争い、果ては剣に手をかけて、陳宮を成敗せんと息巻いた。
 敵の目からも見ゆる櫓のうえである。主従の喧嘩は醜態だ。高順や張遼たちは、見るに見かねて、二人を押しへだて、
 「まあ、ご堪忍ください。陳宮も決して自分のために、面を冒していっているわけではなし、みな忠義のほとばしりです。元来、忠諫の士です。今、唯一つのお味方を失っては決していいことはありますまい」
 呂布もようやく悪酔いのさめたようにほっと大息を肩でついて、
 「いや、ゆるせ陳宮。今のは戯れだ。それより何か良計があるなら惜しまず俺に教えてくれい」
 と、云い直した。呂布には、ほとほと愛想もつきたらしい陳宮であったが、かりそめにも主君である。その主君から頭を下げて機嫌をとられると、彼はまた、忠諫の良臣となって粉骨砕身せずにはいられない気持になった。
「良計はなきにしも非ずですが」
 陳宮も辞を低うして答えた。
「ただお用いあるか否かが問題です。ここに取るべき一策としては『掎角の計』しかありません。将軍は精兵を率いて、城外へ出られ、それがしは城に在って、相互に呼吸をあわせ、曹操をして、首端の防ぎに苦しませるものであります」
「それを掎角の計というか」
「そうです。将軍が城外へ出られれば、必ず曹操はその首勢を、将軍へ向けましょう。すると、それがしは直ぐ城内からその尾端を叩きます。また、曹操がお城のほうへ向かえば、将軍も転じて、彼の後方を脅かし、かくして、掎角の陣形に敵を挟み、彼を屠るの計であります」
「ムム、なるほど、良計良計。孫子も裸足だろう」
 呂布は、たちまち、戦意を昂めて、立ちどころに出城の用意と云いだした。

 山野に出れば、寒気はことに烈しかろうと想像されるので、将士はみな戦袍の下に綿衣を厚く着こんだ。
 呂布も奥へはいって、妻の厳氏に、肌着や毛皮の胴服など、氷雪をしのぐに足る身支度をととのえよといいつけた。
 厳氏は、良人の容子を怪しみながら「いったい、何処へお出ましですか」と、たずねた。
 呂布は、城を出て戦う決意を語って、
 「陳宮という男は、実に智謀の嚢のような人間だ。彼の授けた掎角の計をもってすれば、必勝は疑いない」と、あわただしく、身に物の具をまといだした。
 すると厳氏は「まあ、ここを他人の手に預けて、城外へ出ると仰せなさいますか」
 色を失った面持で、急にさめざめと泣きだした。
 そして、なお、掻き口説いて、
 「あなたは、後に残る妻子を、可哀そうともなんとも思いませんか。陳宮の考えだそうですが、陳宮の前身を思うてごらんなさい。あれは以前、曹操と主従の約をむすんでいたのを、途中から変心して、曹操を見捨てて奔った男ではありませんか。――ましてあなたは、その曹操ほども、陳宮を重く用いてはこなかったでしょう」
 「…………」 妻が真剣に泣いて訴えはじめたので、呂布は途方に暮れた顔をしていた。
 「……ですもの、陳宮が、どうして曹操以上に、あなたへ忠義を励みましょう。陳宮に城を預けたら、どんな変心を抱くかしれたものではありません。……そうなったら、妾たち妻子は、またいつの日、あなたに会うことができましょう」
 綿々と、恨みつらみを並べた。
 呂布は、着かけていた毛皮の鎧下を脱ぎすてて、
 「ばか、泣くな。戦の門出に、涙は不吉だ。明日にしよう、明日に」
 急に、そういって、「娘は何をしているか」
 と妻と共に、娘たちのいる部屋へ入って行った。
 明日になっても呂布は立つ気色もない。二日も過ぎ、三日も過ぎた。
 陳宮がまた、顔を見せた。
 「将軍。―― 一日も早く城を出て備えにおかかりなさらないと、曹操の大兵は、刻々と城の四囲に勢いを張るばかりですぞ」
 「や、陳宮か、おれもそう思うが、やはり遠く出て戦うよりは、城に居て堅く守るが利という気もするが」
 「いや、機はまだ遅くありません。この日頃、許都のほうから夥しい兵糧が曹操の陣地へ運送されて来るという情報が入りました。将軍が兵をひいて城外へ出られれば、その糧道も併せて断つことができる。――これ一挙両得です。敵にとっては致命的な打撃となること、いうまでもありません」                                       「なに。曹操の陣へ、都から兵糧の運送が続々と下ってくると。……フム、その途を中断するのか。よしっ、明日は兵をひいて城を出よう」
 たちまち、呂布は肚をきめて、闘志燃ゆるが如き面をして云ったので陳宮も安心して、
 「何とぞ、この機をはずさず」と、わざと多言を吐かずに退いた。
 その夜、呂布は貂蝉の室へはいった。見れば、貂蝉は帳を垂れ泣き沈んでいる。どうしたのかと訊くと、海棠の雨に打たれたような瞼を紅にはらして、
 「もう再びこの世で将軍とお会いできないかと思うと泣いても泣いても足りません。行く先誰をたのみに世を送りましょう」と、なお悲しんだ。
 「何をいう。おれはこの通り健在ではないか。この城にはまだ冬を越す兵糧もある。万余の精兵もいる」
 「いいえ、妾は夫人から伺いました。将軍は妾たちをすてて、お城をお出になるのでしょう」
 「勝利を獲るために出て戦うので何も好んで死地へ行くわけではないよ」
 「……でも。……でも案じられます。なぜならばお留守をあずかる陳宮と高順とは、日頃から不和で、将軍がお城にいなければ、きっと敵に虚をつかれて乱れます」
 「二人はそんなに仲が悪いのか」
 「わけて陳宮という人の肚は分らないと、夫人も憂いていらっしゃいます。――将軍、お娘様もおいとしいではございませんか。夫人や妾たちも不愍と思うてくださいませ」
 貂蝉は、呂布の胸へひたと涙の顔をあてた。呂布はその肩を軽く打って、
 「あはははは」と強いて大笑した。
「他愛ないやつだ。泣くな、もう悲しむな。城を出ることは止めにしたよ。おれに画桿の戟と赤兎馬のあるうちは、天下の何人だろうが、この呂布を征服することができるものか。 ――安心せい、安心せい」
 背をなでて、ともに牀へ憩い、侍女に酒を酌ませて、自ら貂蝉の唇へ飲ませてやった。
 次の日。こんどは彼も少し間が悪いとみえて、呂布のほうから陳宮を呼びにやって、さて、陳宮の顔を見るといった。
 「念のためおれが探らせたところでは敵の陣へ都から続々兵糧が運送されつつあるとの報告は、どうも虚報らしいぞ。案ずるところ、おれを城外へ誘い出そうとする曹操のわざといわせている流言にちがいない。そんな策に乗ったら大不覚だ。おれは自重するときめた。城を出る方針は中止とする」 陳宮は、彼の室を出ると慨然と長大息して――
 「……ああ、もはや何をかいわんやだ。われわれは遂に身を葬る天地もなくなるだろう」
 と、力なく云った。
 それからというもの、呂布は日夜酒宴に溺れて、帳にかくれれば貂蝉と戯れ、家庭にあれば厳氏や娘に守られて、しかも酒がさめれば怏々としていた。

 「折入ってお目通りねがいたい儀がございまして――」
 と、侍臣を通じて許しを得、彼の前に拝をなした二人の家人がある。
 許汜と王楷、二人とも陳宮の部下なので「何だ」と、呂布は警戒顔していう。
 「聞説――淮南の袁術は、その後も勢力甚ださかんな由であります。将軍には先に、ご息女をもって袁家の息にゆるされ、婚姻の盛儀を挙げんとまでなされましたのに、なぜ今、疾く使いを馳せて、袁術の救いをお求めになりませんか。――婚約のことも、まだ破談ときまったわけでもなし、臣らが参ってとくと先方に話せば、たちまち諒解を得られようと思われますが」  「そうだ。……あの縁談も破談となり終ったわけではないな」
 呂布は暗中に、一つの光明を見出したように呻いた。(109話)

 

― 次週(110話)へ続く―