三国志(100) 曹操その手腕発揮が始まる |  今中基のブログ

 そこで曹操は、呉の孫策へあてて、一書を認め、早馬で飛ばした。
   秋高の天、地は水旱
   精兵は痩せ、肥馬は衰う
   呉船来るを待つや急なり
   慈米十万は百万騎に勝る
 呉の孫策は、すでに、曹操との軍事経済同盟の約束によって、大江をわたり、南のほうから進撃の途中にあったが、曹操の書簡を手にして、
  「すぐ糧米を運漕せよ」と、彼の乞いに応じるべく、本国へ手配をいいやった。
 けれど、何分、道は遠い。途中 揚子江の大江はあるし、護送にはおびただしい兵馬も要る。
 とやかくと、日数はかかった。――そのあいだにも、曹操の陣中では、いよいよ兵糧総官の王垢も悲鳴をあげだしていた。

 「丞相。――申しあげます」
 「なんだ、王垢と任峻ではないか。両名とも元気のない顔をそろえて何事だ」
 任峻は、倉奉行である。
 王垢と共に、曹操のまえへ出て、遂に、窮状を訴えた。
  「もはや、兵の糧は、つづきません、幾日分もございません」
  「それがどうした?」
 曹操は、わざと、そううそぶいて云い放った。
  「予に相談してどうなるか。予は倉奉行でもないし、兵糧総官でもないぞ」
  「はっ……」
  「辞めてしまえっ。左様なことぐらいでいちいち予に相談しなければ職が勤まらぬほどなら」
  「はいっ」
  「――が、こんどだけは、智恵をさずけてやろう。今日から、糧米を兵へ配る桝をかえるがいい。小桝を使うのだ小桝を。――さすればだいぶ違うだろう」
  「桝目を減じれば大へん違ってまいります」
  「そういたせ」
  「はっ」
 二人は倉皇と退がって、直ちにその日の夕方から、小桝を用いはじめた。
 一人五合ずつの割りあてが、一合五勺減りの小桝となった。もちろん粟、黍、草根まで混合してある飢饅時の糧米なので、兵の胃袋は満足する筈がない。
 「どんな不平を鳴らしているか」
 曹操はひそかに、下級兵のつぶやきに耳をたてていた。もちろん喧々囂々たる悪声であった。
  「丞相もひどい」
  「これでは出征の時の宣言と約束がちがう」
  「こんなもので戦えるか」
 要するに怨嗟は曹操に集まっている。喰い物の恨みは強い。曹操は糧米総官の王垢を呼んだ。
  「不平の声がみちているな」
  「どうも……取鎮めてはおりますが、如何とも」
  「策はあるまい」
  「ございません」
  「ゆえに予は、おまえから一物を借りて、取鎮めようと思う」
  「わたくし如き者から、何を借りたいと仰せられますか」
  「王垢。おまえの首だ」「げッ……?」
  「すまないが貸してくれい。もし汝が死なぬとせば、三十万の兵が動乱を起す。三十万の兵と一つの首だ。――その代りそちの妻子は心にかけるな。曹操が生涯保証してやる」
  「あっ。それは、それはあんまりです。丞相ッ、助けてください」
 王垢は泣きだしたが、曹操は平然と、かねて云い含ませてある武士に眼くばせした。武士は飛びかかッて、王垢の首を斬り落した。
  「すぐ陣中に梟(か)けろ」
 曹操は命じた。
王垢の首は竿に梟けられて陣中に曝された。それに添える立札まで先に用意されてあった。
立札には、王垢、糧米を盗み、小桝を用いて私腹をこやす。罪状歴然。軍法に依ってここに正す。

 と、書いてあった。
  「さては、小桝を用いたのは、丞相の命令ではなかったとみえる。ひどい奴だ」
兵は、王垢を怨んで、曹操に抱いていた不平は忘れてしまった。その士気一変の転機をつかんで、曹操は即日大号令を発した。
  「こん夜から三日のうちに、寿春を攻め陥すのだ。怠る者は首だぞ。立ちどころに死罪だぞ!」
その夜、曹操は軍兵に率先して、みずから壕ぎわに立ち、
  「壕を埋めて押しわたれ。焼草を積んで城門矢倉を焼き払え」と、必死に下知した。

 それに対して敵も死にもの狂いに、大木大石を落し、弩弓を乱射した。
 矢にあたり、石につぶされる者の死骸で、濠も埋まりそうだった。ために怯み立った寄手のなかに、身をすくめたままで、前へ出ない副将が二人いた。
  「卑怯者っ」 曹操は叱咤するや否や、その二人を斬ってしまった。
  「まず、味方の卑怯者から先に成敗するぞ」
 自身、馬を降りて土を運び、草を投げこみ、一歩一歩、城壁へ肉薄した。
 軍威は一時に奮い立った。 一隊の兵は、城によじ登り、早くも躍りこんで、内部から城門の鎖を断ちきった。どッと、喊声をあげて、そこから突っこむ。
 堤の一角はやぶれた。洪水のように寄手の軍馬はながれ入る。あとは殺戮あるのみである。守将の李豊以下ほとんど斬り殺されるか生擒られてしまい、自称皇帝の建てた偽宮――禁門朱楼、殿舎碧閣、ことごとく火をかけられて、寿春城中、いちめんの大紅蓮と化し終った。
  「息もつくな。すぐ船、筏をととのえて淮河をわたり、袁術を追って最後のとどめを刺すのだ」
 将領たちを督励して、さらに、追撃の準備をしている数日の間に、
  「荊州の劉表が、さきの張繍と結託して、不穏な気勢をあげている――」
 と、許都からの急報である。 曹操は、眉をひそめ、
  「張繍はともかく、劉表がうごいては、由々しい大事となろうかも知れぬ」
 と、征途を半ばにして、すぐ都へ引揚げた。
 許都へ帰るにあたって、彼は、呉の孫策へ早馬をとばし、
  「君は兵船を以て、長江を跨ぐがごとく布陣し、上流荊州の劉表を、暗に威嚇しておるように」
 と、申入れた。
 また、呂布と玄徳には、
  「以前の誼みを温めて、徐州と小沛を守り合い、唇歯の交わりを以て、新たに義を結びたまえ」
 と、二人に誓いの杯を交わさせた。そして劉玄徳へは、特に、
  「もうこれで呂布にも異存はあるまいから、ご辺も予州を去り、もとの小沛の城へ帰られるがよい」と、命じた。

 玄徳は、好意を謝し、別れようとすると、曹操は、呂布のいないのを見すまして、
 「……君を、小沛に置くのは、虎狩りの用意なのだ。陳大夫と陳登父子が、ぼつぼつ陥し穽をほりかけている。あの父子と計らって、ぬからぬように準備し給え」 とささやいた。
 かくて曹操は、後図の憂いにも万全を期し、やがて、総軍をひいて許都へ帰ってくると、段、伍習という二名の雑軍の野将が、私兵をもって、長安の李と郭を打ち殺したといって、その首を朝廷へ献上しに来た。 李傕、郭汜は、長安大乱以来の朝敵である。公卿百官は、思わぬ吉事と慶びあって、帝に奏上し、段煨と伍習には、恩賞として、官職を与え、そのまま長安の守りを命じた。
  「太平の機運が近づいた」と、朝野は賀宴を催して祝った。町には、二箇の逆賊の首が七日間さらされていた折も折、征途から帰還した、曹操の兵三十万も、この祝日に出会ったので、飲むわ、喰うわ躍るわ、許都は一時、満腹した人間の顔、祝賀の一色に塗りつぶされた。(100話)

― 次週101話へ続く―