三国志㊿ 王允と呂布“董卓殺害の謀りごと”に李粛を加える。 |  今中基のブログ

 董太師、郿塢へ還る。―と聞えたので、長安の大道は拝跪する市民と、それを送る朝野の貴人で埋まっていた。  呂布は、家にあったが、
  「はてな?」 窓を排して、街の空をながめていた。
  「今日は、日も吉いから、貂蝉を送ろうと、李儒は云ったが?」
 車駕の轣音や馬蹄のひびきが街に聞える、巷のうわさは嘘とも思えない。
  「おいっ、馬を出せっ、馬を」 呂布は、厩へ馳け出して呶鳴った。
 飛びのるが早いか、武士も連れず、ただ一人、長安のはずれまで鞭打った。そこらはもう郊外に近かったが、すでに太師の通過と聞えたので、菜園の媼も畑の百姓も往来の物売りや旅芸人などまですべて路傍に草の如く伏していた。
 呂布は、丘のすそに、駒を停めて、大樹の陰にかくれて佇んでいた。そのうちに車駕の列が蜿蜒と通って行った。
 ――見れば、金華の車蓋に、珠簾の揺れ鳴る一車がきしみ通って行く。四方翠紗の籠屏の裡に、透いて見える絵の如き人は貂蝉であった。――貂蝉は、喪心しているもののように、うつろな容貌をしていた。
 ふと、彼女の眸は、丘のすそを見た。そこには、呂布が立っていた。――呂布は、われを忘れて、オオと、馳け寄らんばかりな容子だった。
 貂蝉は、顔を振った。その頬に、涙が光っているように見えた。――前後の兵馬は、畑土を馬蹄にあげて、忽ち、その姿を彼方へ押しつつんでしまった。

 呂布は、茫然と見送っていた。――李儒の言は、ついに、偽りだったと知った。いや李儒に偽りはないが董卓が、頑として貂蝉を離さないのだと思った。
  「……泣いていた、貂蝉も泣いていた。どんな気もちでの城へいったろう」
 彼は、気が狂いそうな気がしていた。沿道の百姓や物売りや旅人などが、そのせいか、じろじろと彼を振向いてゆく。呂布の眼はたしかに血走っていた。
  「や、将軍。……こんな所で、なにをぼんやりしているんですか」
 白い驢を降りて、彼のうしろからその肩を叩いた人がある。
 呂布は、うつろな眼を、うしろへ向けたが、その人の顔を見て、初めてわれにかえった。
 「おう、あなたは王司徒ではないか」
 王允は、微笑して、
  「なぜ、そんな意外な顔をなされるのか。ここはそれがしの別業の竹裏館のすぐ前ですのに」
  「ああ、そうでしたか」
  「董太師が郿塢へお還りと聞いたので、門前に立ってお見送りしたついでに、一巡りしようと驢を進めて来ました。――将軍は、何しに?」
  「王允、何しにとは情けない。其許がおれの苦悶をご存じないはずはないが」
  「はて。その意味は」
  「忘れはしまい。いつか貴公はこの呂布に、貂蝉を与えると約束したろう」
  「もとよりです」
  「その貂蝉は老賊に横奪りされたまま、今なお呂布をこの苦悩に突きおとしているではないか」
  「……その儀ですか」
 王允は、急に首を垂れて、病人のような嘆息をもらした。
 「太師の所行はまるで禽獣のなされ方です。わたくしの顔を見るたびに、近日、呂布の許へ貂蝉は送ると、口ぐせのようにいわるるが、今もって、実行なさらない」
 「言語道断だ。今も、貂蝉は、車のうちで泣いて行った」
 「ともかく、ここでは路傍ですから……、そうだ、ほど近い私の別業までお越し下さい。篤と、ご相談もありますから」
 王允は、慰めて、白驢に乗って先へ立った。
 そこは長安郊外の、幽邃な別業であった。
 呂布は、王允に誘われて、竹裏館の一室へ通されたが、酒杯を出されても、沈湎として、溶けぬ忿怒にうな垂れていた。
  「いかがです、おひとつ」
  「いや、今日は」
  「そうですか。では、あまりおすすめいたしません。心の楽しまぬ時は、酒を含んでも、いたずらに、口にはにがく、心は燃えるのみですから」
  「王司徒」
  「はい」
  「察してくれ……。呂布は生れてからこんな無念な思いは初めてだ」
  「ご無念でしょう。けれど、私の苦しみも、将軍に劣りません」
  「おぬしにも悩みがあるか」
  「あるか――どころではないでしょう。折角、将軍の室へ娶っていただこうと思ったわが養女を、董太師に汚され、あなたに対しては、義を欠いている。――また、世間は将軍をさして、わが女房を奪われたる人よ、と蔭口をきくであろうと、わが身に誹りを受けるより辛く思われます」
  「世間がおれを嘲うと!」
  「董太師も、世の物笑いとなりましょうが、より以上、天下の人から笑い辱められるのは、約束の義を欠いた私と、将軍でしょう。……でもまだ私は老いぼれのことですから、どうする術もあるまいと、人も思いましょうが、将軍は一世の英雄でありまた、お年も壮んなのに、なんたる意気地のない武士ぞといわれがちにきまっています。……どうぞ、私の罪を、おゆるし下さい」
 王允がいうと、
  「いや、貴下の罪ではない!」
 呂布は、憤然、床を鳴らして突っ立ったかと思うと、
  「王司徒、見ておれよ。おれは誓って、あの老賊をころし、この恥をそそがずにはおかぬから」
 王允は、わざと仰山に、
  「将軍、卒爾なことを口走り給うな。もし、そのようなことが外へ洩れたら、お身のみか、三族を亡ぼされますぞ」
  「いいや、もうおれの堪忍もやぶれた。大丈夫たる者、豈鬱々として、この生を老賊の膝下に屈んで過そうや」
  「おお、将軍。今の僭越な諫言をゆるして下さい。将軍はやはり稀世の英邁でいらっしゃる。常々ひそかに、将軍の風姿を見ておるに、古の韓信などより百倍も勝れた人物だと失礼ながら慕っていました。韓信だに、王に封ぜられたものを、いつまで、区々たる丞相府の一旗下で居たまうわけはない……」
  「ウーム、だが……」 呂布は牙を噛んで呻いた。

 「――今となって、悔いているのは、老賊の甘言にのせられて、董卓と義父養子の約束をしてしまったことだ。それさえなければ、今すぐにでも、事を挙げるのだが、かりそめにも、義理の養父と名のついているために、おれはこの憤りを抑えておるのだ」
  「ほほう……。将軍はそんな非難を怖れていたんですか。世間は、ちっとも知らないことですのに」
  「なぜ」
  「でも、でも、将軍の姓は呂、老賊の姓は董でしょう。聞けば、鳳儀亭で老賊は、あなたの戟を奪って投げつけたというじゃありませんか。父子の恩愛がないことは、それでも分ります。ことに、未だに、老賊が自分の姓を、あなたに名乗らせないのは、養父養子という名にあなたの武勇を縛っておくだけの考えしかないからです」
  「ああ、そうか。おれはなんたる智恵の浅い男だろう」
  「いや、老賊のため、義理に縛られていたからです。今、天下の憎む老賊を斬って、漢室を扶け、万民へ善政を布いたら、将軍の名は青史のうえに不朽の忠臣としてのこりましょう」
  「よしっ、おれはやる。必ず、老賊を馘ってみせる」呂布は、剣を抜いて、自分の肘を刺し、淋漓たる血を示して、王允へ誓った。 
呂布の帰りを門まで送って出ながら、王允は、そっとささやいた。
  「将軍、きょうのことは、二人だけの秘密ですぞ。誰にも洩らして下さるな」
  「もとよりのことだ。だが大事は、二人だけではできないが」
  「腹心の者には明かしてもいいでしょう。しかし、この後は、いずれまた、ひそかにお目にかかって相談しましょう」
 赤兎馬にまたがって、呂布は帰って行った。王允はその後ろ姿を見送って、
 ――思うつぼに行った。と独りほくそ笑んでいた。
 その夜、王允はただちに、日頃の同志、校尉黄、僕射士孫瑞の二人を呼んで、自分の考えをうちあけ、
  「呂布の手をもって、董卓を討たせる計略だが、それを実現するに、何かよい方法があるまいか」と、計った。
  「いいことがあります」と、孫瑞がいった。
  「天子には、先頃からご不予でしたが、ようやく、この頃ご病気も癒えました。ついては、詔と称し、偽の勅使を郿塢の城へつかわして、こういわせたらよいでしょう」
  「え。偽勅の使いを?」
  「されば、それも天子の御為ならば、お咎めもありますまい」
  「そしてどういうのか」
  「天子のおことばとして――朕病弱のため帝位を董太師に譲るべしと、偽りの詔を下して彼を召されるのです。董卓はよろこんで、すぐ参内するでしょう」
   「それは、餓虎に生餌を見せるようなものだ。すぐ跳びついてくるだろう」
   「禁門に力ある武士を大勢伏せておいて、彼が、参内する車を囲み、有無をいわせず誅戮してしまうのです。――呂布にそれをやらせれば、万に一つものがす気遣いはありません」
  「偽勅使には誰をやるか」
  「李粛が適任でしょう。私とは同国の人間で、気性も分っていますから、大事を打明けても、心配はありません」
  「騎都尉の李粛か」「そうです」
  「あの男は、以前、董卓に仕えていた者ではないか」
  「いや、近頃勘気をうけて、董卓の扶持を離れ、それがしの家に身を寄せています。なにか、董卓にふくむことがあるらしく、怏々として浮かない日を過しているところですから、よろこんでやりましょうし、董卓も、以前目をかけていた男だけに、勅使として来たといえば、必ず心をゆるして、彼の言を信じましょう」「それは好都合だ。早速、呂布に通じて、李粛と会わせよう」

 王允は、翌晩、呂布をよんで、云々と、策を語った。――呂布は聞くと、
「李粛なら自分もよく知っている。そのむかし赤兎馬をわが陣中へ贈ってきて、自分に養父の丁建陽を殺させたのも、彼のすすめであった。――もし李粛が、嫌のなんのといったら、一刀のもとに斬りすててしまう」と、いった。
 深夜、王允と呂布は、人目をしのんで、孫瑞の邸へゆき、そこに食客となっている李粛に会った。
  「やあ、しばらくだなあ」
 呂布はまずいった。李粛は、時ならぬ客に驚いて唖然としていた。
  「李粛。貴公もまだ忘れはしまいが、ずっと以前、おれが養父丁原と共に、董卓と戦っていた頃、赤兎馬や金銭をおれに送り、丁原に叛かせて、養父を殺させたのは、たしか貴公だったな」
  「いや、古いことになりましたね。けれど一体、何事ですか、今夜の突然のお越しは」
  「もう一度、その使いを、頼まれて貰いたいのだ。しかし、こんどは、おれから董卓のほうへやる使いだが」
 呂布は、李粛のそばへ、すり寄った。そして、王允に仔細を語らせて、もし李粛が不承知な顔いろを現したら、即座に斬って捨てんとひそかに剣を握りしめていた。
 ふたりの密謀を聞くと、李粛は手を打って、
  「よく打明けて下すった。自分も久しく董卓を討たんとうかがっていたが、めったに心底を語る者もないのを恨みとしていたところでした。善哉善哉、これぞ天の助けというものだろう」と喜んで、即座に、誓いを立てて加担した。

― 次週へ続く―