楚漢戦争 陰の立役者陳平の存在<その1> |  今中基のブログ

 陳平は、陽武県(河南省)の人である。
 ---貧もあの男にまでなるとめずらしい、

 と郷党のたれもが言ったが、しかしその容姿からは想像もできない。白皆巨眼、見るからに聡明な容貌をもっていた。
 かれの故郷は典型的な黄土層地帯の農村であった。大地が黄牛の背のようにゆるやかにうねり、野はよく耕され、樹々はすくなく、秋になれば真っ蒼な天が村をおおった。
 かれの家は里(25戸)の郭から一戸だけ郭外に離れていた。いつの時代か、他郷から流れてきた家であったことがわかる。陳家は両親が早く死に、兄の陳伯がわずか30畝しかない田の中で終日這いずりまわって耕していた。弟の陳平としては兄の作男として働くべきであったが、鍬をもとうとすると、兄の陳伯が叱った。
 「いいんだ、お前は学問しろ」
 陳伯は矮人といえるほどに小さく、陳平とはちがい、気の毒なほどお人好しであった。かれは子がなかったせいか、自分とはちがった体格と頭脳をもった弟が自慢で
 「里中ではみなおれの家とおれを軽んじている。しかしおれには平がいる」
 と、妻の素姚にもいうのだが、彼女はそのつど腹が立った。
 (この人は、平のためなら身を売って奴隷にでもなりかねない)
彼女にすればこの貧家に嫁入りしたことも不幸であったが、どんなに忙しくても草一本も引かないばけものを家のなかで飼っていることも、気の障りであった。陳平は兄から麦や布をもらっては陽武の町の学問の師匠のもとに通っており、家に居るときは訪客も多かった。客があれば、素姚としては捨ててもおけず、鍋ぞこの飯こげを湯で掻き回したものでも出さねばならない。「あの小僧は、それを有難いとも思わないんだよ」と、素姚は里中の女たちにこぼした。

 「何様と思っているのだろう。あいつの血は、ひょっとすると蛇のように冷たいんじゃないか」
 兄を牛馬のように働かせて何とも思わず、町へ行って大地主の若旦那のように学問している。尋常の神経でできることではない。
 素姚は小柄で、ばねのきいた四肢をもっていた。口ほどには働き者ではなかったが、気がむくと狂ったように働いた。麻の実を蒔くのがとびきりうまかった。ひさごを二つに割った器を左の小わきにかかえ、風むきをみて実をつかみ、右の肘をきらめかせるようにして蒔いてゆくのだが、素姚がやると里中の社の祭礼で舞っているようにふしぎなリズムがあった。
 もっとも陳家には麻畑はなかった。素姚は他家にやとわれてこれを蒔き、いくらかの麦や栗をもらってくるのである。ある年、この麻の実まきの季節だったころのできごとである。陳平はその日、陽武の町に出ていた。
 帰路、陽がかたむいた。通りがかった畑は暮色につつまれており、小さな人影が、褐色の夕闇にあやうく溶けそうになりながら手足を舞わしている。しばらく見とれていたが、やがてそれが嫂の素姚であることに気づいた。
 (あの女が、これほど可愛かったか)
 陳平は足音を忍ばせ、やわらかい土を踏んで近づいてみた。素姚は気づかない。この義弟はながい臂をのばして、瓜でも賞でるように、嫂のまるい腰を両掌でそっと持ちあげた。
 素姚は小動物のように跳びあがってしまった。ふりかえって相手が陳平であることに気づいたのと、つまさきが再び土に突きささったのと、陳平の大きな腕の中に抱かれるのと、ほとんど同時であった。
 素姚はこのときの気持を自分でも説明できない。声をあげなかった。待っていたように土の上にくずれたのはあるいは平素陳平にはげしい関心があったからともおもわれるし、あるいはそうでなく、蛙が蛇に見入られたようにごく自然に力がぬけて大地に身をゆだねるようにして陳平のなすがままに身をひらいたのかもしれない。これについて、陳平には自責の気持はなかった。かれは老子のいう自然ということばが好きであった。


 陳平は、葬式のとりしきりがうまかった。
この大陸では儒教の普及以前からおどろくほどの手厚さで葬式が重んじられた。葬式は、里人たちに事務能力と運営、あるいは人と人との関係の調整、さらには統御の能力を要求したが、このことをうまく仕切ってゆく者が、一郷から立てられた。 かつて項梁が葬式を統御してその配下の諸将をきめて行ったことや、劉邦の将の周勃が葬式屋の出であることなどをおもえば、この間の機微を多少は嗅ぐことができる。
 

 「陳平に孫娘をやろう」 と、この里で第一等の金持である張負という老人が言いだしたのも、陳平の葬式のとりしきりのうまさを見てのことであった。
 一族の誰もが反対した。札つきの貧家の次男坊に娘を呉れてやる家などはなかったし、そのために陳平は20才を過ぎても ひとり身でいた。
張負老人は一族の反対者を陳家の前につれて行った。陳家の門は扉がなくむしろを垂らしただけであったが、門前の泥の道にはかつて訪ねてきた貴人たちの車のわだちが彫りもののように幾すじも路面をくぼませていた。
 「これをみろ。あばらやながら陳平が居ればこそ貴人が訪ねてくる。ああいう美丈夫でいつまでも貧賤でいたというためしがかつてあったか」
 と老人が言ったのは、人の価値をその押し出しのよさでみるこの時代の通癖と無縁ではない。 「それほどに見込まれるならば」
 と、娘の父の張仲も折れた。陳平は見込まれたわけであったが、半面、軽んじられたともいえる。この張負老人の孫娘というのは五度嫁に入って五度不縁になった女で、魯鈍であるうえに陽ざらしの野菜のように皮膚が潤んでいた。
 陳平がこの縁談を二つ返事で承けたのは、張家の婿になれるということに魅力を感じたからであった。 この嫁を娶ったおかげで、里における陳平の地位が重くなった。この秋、里のなかの杜にある社で祭礼が行われたとき、選ばれて陳平が宰領になったほどであった。宰という語源は『白虎通』に「たち切るなり」とある。里人たちが寄進した肉を、祭礼のあと包丁をもって切り分ける職を言い、公平を要求された。遊牧民族の場合、宰は日常、家父長が威厳と平等の精神を持って取り行うのだが、漢民族の里の習俗の中に古くからこのことがあるのは、この大陸の民族の文化のなか に遊牧民族の習慣が色濃く投影していることを思わせる。
 ともかくも陳平は見事に宰をやってのけた。里人がひとりひとり陳平の俎板のそばへ行って賞めたが、陳平はよろこばなかった。
 ----自分に天下の肉を与えよ。このように見事に切り盛りしてやるのに。という。
 秦末、陳勝の一揆が起こって以来、天下大乱になった。
 陳平らのすむ地域はかつての魏の故地であったが、陳勝が亡魏の公子で庶人になっていた魏咎という者を立て、魏王を称せしめた。
 陳平はこの風雲に乗じた。
 といっても一介の里住まいの身で勢力といえるほどのものを起せるわけがなかった。僅かに里の少年20人を引連れて魏咎のもとに行って仕えただけであった。さいわい魏咎は陳平の美丈夫ぶりを賞でてかれの乗物をつかさどる役人にしてくれた。陳平は自分の多能をもてあましている男だけに、魏咎にしきりに建策したが、このにわか仕立ての魏王には陳平が何を言っているのかも分からなかった。
 魏咎の家来といっても多くは流盗かやくざ者で、かれらの目からみれば、陳平が変に知識人ぶってひとを見くだしているように見え、そのくせ術が多く、諸事ゆだんのならぬ男のように映った。かれらは魏咎に讒訴した。
 陳平の長所と欠陥は、危険の予知能力が有り過ぎたということであろう。讒訴のうわさをきくと、うわさだけで夜、荷をまとめて魏から逃げてしまった。
 ときに項羽の勢力がすさまじい勢いで伸びていた。かれはおもむいて項羽の軍に入り、戦えばかならず小功をたてた。
 「なかなか気のきいたやつだ」と項羽はおもい、目をかけた。
 項羽がついに秦軍をやぶり、劉邦を関中から追い出し、傘下の諸将に対し大いに論功行賞を行ったとき、陳平に対し、卿の待遇をあたえた。
項羽の論功行賞は不公平が多かったが、とくに陳平については過賞であった。諸将は、陳平については卿の礼遇をうけるほどの軍功はない、と論評し、そのことが項羽の耳に入った。項羽は、

 ----あの男の風采をみろ。

 といった。陳平が、その涼しげな目、色つやのいい顔、それに堂々たる体躯でもって得をしたことは、この一事でもわかる。

 項羽は天下を定め、彭城を根拠地にし、その後、北方の斉が騒いだので、北伐した。そのすきに漢王の劉邦が東進してきて一挙に彭城を占領したのだが。項羽は彭城を回復すべく軍を返して急進中、殷が反乱をおこしたという急報に接した。殷へ討伐にやる適当な将が手もとにいなかったため、陳平を起用した。
 「陳平よ、ただの卿では士卒がおまえに心服すまい」
 といって、とくに信武君という尊称を称することを許した。この時期、各地の王たちが君を乱発していて、価値はよほどさがっていたが。
 陳平は兵をひきいて遠く殷の地へゆき、これをまたたくまに平定して項羽のもとにもどった。 「やはり風采に恥ずることのないやつだ」と項羽は大いによろこび、陳平を都尉にした。都尉というのは旧秦の時代、郡の長官の下にいて軍事をつかさどった官で、近代軍隊でいえば中佐か大佐ぐらいにあたる。
 (その程度にしかこのおれを見ていないのか)
 と、陳平はむしろ失望した。常識でいえば郷関を出るときわずか20人の手下しか持たなかった陳平が項羽の引立てによ って楚軍の都尉になったというだけでも奇跡にちかい。が、陳平はかれを評価した項羽のほうを、低く採点した。
 (所詮は、項羽というのは人間がわからない)
と、思った。陳平は都尉として小部隊をひっさげて戦場で力闘するよりも、帷幄にあって千里のかなたで勝敗を決したり、あるいは政略によって大局を変化させたりすることのほうに自分の才能があると思っていた。
 もっとも項羽の側には事情がある。たとえ項羽が陳平のその才に気づいたとしても、この幕営にはすでに范増という軍師がいる。
 「亜父」
 と、項羽が父に亜ぐ人として呼んでいるこの老人については項羽は大きな尊敬と信頼をもっており、いま一人軍師を置くというような失礼なことをするはずもなかった。項羽の人としてのよさはそういう情のあつさにあった。もっとも欠点としては 范増に対し信頼ほどにはその策を用いていないことであったが。
 ----いっそ范増に認められたい。
 と、陳平は思い、その後、幾度か范増に接触して意見を申しのべた。范増は七十を越えている。若いころは多弁だったといわれているが、いまは必要なこと以外は言葉を含んだ。たとえば陳平があるとき 何かを献策したときも、瞼をなかば閉じ、ねむっているような無感動な顔できいた。ときに聴きおわると、 「それだけか」 と瞼をあげた。あるとき陳平はたまりかねて、
 「私を才子であるとお思いですか」
 と反問したことがある。才子とはむろん悪い意味として使った。范増はツト肩をすくめ、目もとだけで笑い、なにもいわない。----そのとおり。おまえは才子だ。ということであったろう。
 (范増は、おれを誤解している)
 陳平は范増のぶんまで勝手に思い、自作自演して自分自身を苦しめた。機略だけを曲芸のようにもてあそび、性根といえば浮薄で実がなく、人間として信頼できる部分がすくない、というふうに范増が自分を見ているように陳平にはおもわれた。 むろん陳平自身、そういう匂いが多少は自分にあるように思っていたが、しかし彼自身にはそのことの説明がついていた。かれは自分の才能を表現する場が無いことであせっており、そのあせりが范増に軽忽な印象をあたえていると勝手に想像し、自問自答して----秘かに弁解しているのである。利口すぎる男であった。
 利口すぎるといえば、陳平は項羽の代理で殷へ行って反乱を討伐したとき、じつは軍事行動はあまりやらず、反乱側と取引し、独断でかれらの命を助けて逃がしてしまい、表むきは武力鎮圧をしたということで項羽に報告した。

 ところが、殷がふたたびそむいた。
 情報では、陳平に殺されたはずの巨魁どもがもとどおりの地をおさえ、反楚勢力と連繋しているという。「陳平というのは主をも誑かす奴ですよ」
 と、范増が項羽に言ったと言う噂があり、項羽が激怒しているという。

 陳平はとっさに脱走を決意した。逃げわざの速さはこの男の特技のようになっていたが、つねに本意ではなかった。その証拠に、陣営を清め、項羽から拝領した都尉の印綬と、かれから貰ったすべての金品を箱に封じ、使者をやって返納させた。
 陳平は、故郷の戸牖の少年6人をつれて脱出し、黄河の岸で舟をやとった。
 かれは劉邦とその軍をもとめて野をゆき、水を渡った。ときに彭城で大敗した劉邦はその後、四方をさまよいつつ軍をかき集めており、一方では滎陽城(河南省)の守りを堅くして籠城の準備をしている時期であった。陳平は、投降というかたちをとった。さいわい、劉邦の陣中には、陳平が魏咎につかえていたころに親しかった魏無知という亡魏の旧貴族がいる。
 「私は陳平と申します。魏無知どのと旧面があります。かのお人に会いたい」
 と、漢兵に捕らえられてはそう言い、ときに魏無知の名を連呼しながら通りぬけ、ついに漢軍の軍門のなかでこの旧友に会った。        ―次週へ続く―