劉邦の信頼を得、大将軍として‟巨鹿の戦い”に勝利した張良は指揮権を返上 幕僚に戻る。 |  今中基のブログ

 中国の長い歴史のなかで無名の農民から身をおこして王朝を建設したのは、劉邦以外にはない。劉邦という男は、この大陸の土俗のなかから生まれ、土俗という有機質を、育ちのよさや教養で損ねることなく身につけ、文字どおり裸のまま乱世の世間に出た。
 劉邦が、自分に後天的な属性を付加しようとしたのは、戦国の魏の貴族で、かつ大使ともいえる信陵君を尊敬して、その独特の快心を学ぼうとしたぐらいのことで、後はただ土俗人として思考し、ふるまい、平素、外見は百姓おやじのように茫々としていた


 ただ、「おのれのよくせざるところは、人に任せる」という一事だけで、やってきた。 劉邦は、土俗人なら誰でも持っている利害得失の勘定能力を備えていたが、しかしそのことは奥に秘め、露わにはせず、その実体は常に空気を大きな袋で包んだように虚であった。
 ひとの印象では、その虚なる袋は次第に大きくなった。
 数百程度の首領として沼沢を駆けまわっているときはその程度の虚であったが、数十万の首領となったいま、際限もないかと思われる程に大きな虚になっていた。 劉邦とその麾下の諸軍は、関中高原の東辺の低い野を上下しつつときに城市を囲み、ときに野戦し、一勝一敗した。しかしながら、目指すところの関中へは容易に近付くことができなかった。
 すでに張良が、劉邦の帷幕にいる。
 張良が、かつての韓の地で専念していたゲリラ戦の指揮を他に譲り、劉邦の帷幕にやってきたときは、劉邦は開封城外にいた。 城を囲んではいたが、開封城の壁は固く、その城頭に立って弩を射る秦兵は強く、劉邦の軍はただ野に満ちて長囲するだけで成すところがなかった。一つには、流民軍としての劉邦の側は、慢性的に兵器が足りず、精巧な兵器は秦軍が独占していたということもあった。かつて秦の始皇帝が、かれが滅ぼした六国が再び武装することのないよう天下の兵器を咸陽に集めてこれを鋳潰すということをやったが、その効が秦軍に幸いし、劉邦軍を苦しめた。とくに不足しているのは、矢の先端につける重い鏃であった。この時代の鏃はすでに銅のようなやわらかいものではなく、真鍮のような感じの硬い合金で、民間で簡単に作れるようなものではなかった。

 「開封など、しばらく置き捨てましょう」
 と、張良は言い、劉邦の目を南方に向けさせた。南方のかつての韓の地は小城が多く、抜きやすいばかりか、 張良の息のかかった遊撃隊や諜者が無数にいた。張良の策は、これらを使って敵を動揺させる一方、劉邦の主力軍をもって小城をいちいち攻め潰し、その兵器を奪い、攻撃力を次第に充実させてやがて大敵に当ればいい、というごく常識的なものであった。
 劉邦は簡単に賛成した。張良の実力が十分に分かっているわけで はなかったが、
 (こいつは、ひどく冷たい顔をしている) という、妙な箇所に劉邦は魅かれていた。張良が冷酷であるということではなく 張良というこの秀麗な容貌を持った男は、どういう場合でも気分や表情を変えず、倦むことなく敵味方の数量計算や心理の推量、それに地理的或いは時間的要素などを考え続けていた。こいつも化けものだ、と劉邦は思った。劉邦の好きな、かつての魏の信陵君の食客にも多種類の化けものが居たように、張良だけでなく近頃の劉邦の幕下にこの手の化けものが多く集まっている。
 (張良にやらせてみよう)
 劉邦はひとまずまかせることにした。まかせるとなると劉邦は徹底していて、全軍の指揮権を気前よく張良にあずけてしまった。
 この気前のよさに、張良のほうも驚かざるを得ない。かれは本来、机上の兵法家であった。軍事に習熟していたわけではなく、自信もなかった。しかしいきなり指揮権を持たされてしまったことによる責任感と、軍隊という生命を敵と交換しあう集団の重さが、かれを数日でもって百戦の玄人にもひとしい実質感覚の人に仕立てあげた。 張良は、開封城外から逐次兵力を南下させ、それらを分散させたり集結させたりして、かつての韓の地の小城を、いわば落ち栗を拾うような容易さで抜いて行った。
 しかし落ち栗の価値は所詮は落ち栗でしかなく、劉邦幕下の他の将軍には張良が無駄な作業をして時を浪費しているように思えてならなかった。関中に達するのは項羽軍と競争である以上、悠暢な道草はゆるされない。
 張良は開封を置き捨てて南方の野を掠めている。つまりは開封を孤立させようということか。
 と、張良に好意的な連中は想像したが、この想像は現実とは適っていない。開封は東西にわたって数珠玉のようにならぶ秦の堅城群の一つとして他の数珠と互いに連繋しあい、決して孤立するという状況にはならない。
 張良は、それを目的としていなかった。大目的はむろん関中に攻め入ることであったが、それへ至るために、まず劉邦軍を強くせねばならぬと張良は思っていた。ひとつには秦の兵器を獲得し、ひとつには弱い城を攻め潰すことによって、戦えば必ず勝つという自信を士卒につけさせることであり、さらにいま一つの目的は、秦軍を城々からおびき出して野外で決戦し、北方の距鹿の野で項羽がやってのけたような快勝をおさめ、劉邦軍の評判を敵味方に対して高くすることだった。
 (劉邦軍のいままでの動きというのは、ただ敵地で漂っているだけだ)
 と、張良は見ている。これでは強勢を誇る項羽軍との開きがますます大きくなり、もし秦を滅ぼした場合、楚軍全体のなかでの沛公(劉邦)の発言力を弱くしてしまうし、また一方、日常の戦闘もやりにくかった。
 項羽軍より劉邦軍のほうが弱いとみて秦軍はかえって勢いづき、士気を高め、嵩にかかって攻めてくるため、負けずともいい戦いでも利を失うことが多かった。  
 張良のこの落ち栗ひろいは、秦軍を刺激した。秦軍はたまりかねて城々を出、劉邦軍を打撃すべく野戦軍の編成にとりかかった。
 楊熊という秦将が、その総師に任命された。
 (どうもこれは、おれの思惑どおりになってきたようだ) と、南方で戦っている張良がこの情報を得たとき、そう思った。元来、張良が情報収集というこの地味な作業に注ぎ込んでいる金と人は、この当時の常識をはるかに越えたもので、秦人の動静は秦人よりも詳しいと言える。

 秦の楊熊将軍は白馬(地名)まできて兵の集まるのを待っている。 という情報も得た。白馬とはこんにちの河南省滑県の西方にあった地名で、張良は楊熊の野戦軍が膨れあがらぬうちにこれを撃つべく北上し、諸将それぞれに策をさずけ、陽動、奇襲、包囲をくりかえしてこれに大打撃をあたえた。楊熊はこの意外な敗戦に仰天し、少数の兵をひきいて曲遇(河南省)にのがれたが、張良はあらかじめ、楊熊がここに逃れて来るものとみて予備隊を機動させ、さらにこれを破った。秦軍は灰を吹いたよう に四散してしまい、楊熊は身一つで走り、官倉のある滎陽城に逃げこんだ。
 「秦軍が大敗した」
 という敗北の報は、秦都咸陽によほど大きな衝撃をあたえたらしい。都下の動揺がいかに大きかったかということは、宦官の趙高に籠絡されて宮殿の奥で逸楽を愉しんでいた二世皇帝胡亥の耳にさえ聞こえたほどであった。
 二世皇帝ははじめて事態の切迫を知った。狼狽と恐怖は、関東(函谷関の東方)の野で敗けた揚熊という一将軍の罪を問うという一点に集中し、
 「殺せ」

 と、命じた。胡亥が、即位以来、秦帝国の政治についてやったことといえば、この一事ぐらいのものであった。
 皇帝の使者は滎陽城に入り、城外の野に楊熊をひき出し、衆人に見物させつつ、罪状を読み、首を刎ねた。
 この勝利は劉邦軍を力づけただけでなく、劉邦が張良という男を信頼する基礎になった。たれよりも張良自身、(いくさというものは、勝つための手だてを慎重に重ねて行けば必ず勝つものだ) と、大いに自己の方式を信ずるようになった。
 張良はこの戦勝のあと、指揮権を劉邦の手に返上した。大軍総帥としてその座に坐るには物事についてよほど無神経な人間でなければ務まらぬようであり、張良は数カ月で両眼が飛び出るほどに痩せてしまった。 劉邦の信頼を得、大将軍として巨鹿の戦いに勝利した張良は指揮権を劉邦に返上した。
 「私には、むりです」
 と、劉邦にいうと、劉邦は顔じゅうに笑いをひろげ、公にすべてを任せればわしは楽だと思っていたが、将帥の座というのはそれほど心労がともなうか、と言い、
 「わしなどは馬上で居眠っているだけだ」と、いった。
 張良はこれを聞き(なるほど、この人の内部はそういう仕組みになっているのか)と あらためて劉邦が大きな空虚であることを思った。張良が将権を代行すると、まずいことが多かった。かれが一個の実質であるため、かれに協力する劉邦の幕下の多彩な才能群ともいうべき諸将は張良の意中をいろいろ忖度することに疲れ、結局はその命を待って動くのみで、みずからの能力と判断で動かなくなってしまう。
 とくに後方補給と軍政の名人という点で張良以上である蕭何の場合、この弊害が著しかった。張良の作戦が正と奇を織りまぜて複雑になるため、蕭何にすれば補給をどこに送っていいかわからず、結局は悪意でなく怠業状態におち入り、張良がいちいち後方の蕭何へ連絡者を走らせて命令と指示を伝えねばならなくなった。 このため張良も疲れ、蕭何も疲れてしまうのである。

 劉邦は、本来、ぬけ目のない男で、それがときどき出た。
 ----関中へ意外な者が一番乗りするおそれがある。
 という情報が、北方の趙の別働軍の将である司馬欣の動静とともに伝わったとき、劉邦のやり方はあくどかった。司馬欣は北方からまさに黄河に近づき関中へ入る勢いを示していた。 これに対し、外交で調整する手はあるはずだったが、劉邦は一軍を急行させて平陰という渡河点を占領し、友軍である司馬欣の軍を脅迫しつつ、渡河を武力で抑え込んでしまった。
 しかも劉邦の主力はその渡河点からおよそ遠い南方にあり、さらに南下を続けている。南下が張良の献言によることはいうまでもなかった。劉邦は張良の言をよく容れ、劉邦に指揮権がもどると、幕下の者たちは劉邦の空虚を埋めるためにおのおのが判断して劉邦の前後左右でいきいきと動きまわり、ときにその動きが矛盾したり、基本戦略に反したりすることがあっても、全軍に無用の疲労をあたえない。
 「私が指揮しますと、二度三度は勝ちを収めそれにより士気も上りますが、やがては別の要因で全軍に弛緩が表れます。それがもとで軍そのものを自潰させることになるかもしれません」
 と、張良は自分の欠点を正直に言った。正直はこの作戦家の際立った特徴というべきものであった。さらには、一面、正直に自分の価値の長短を劉邦に把握させておくことによって、劉邦から怖れられるということを防いだ。ともかくも以上の二、三の勝利作戦のあと、張良は幕僚にもどり、かれの好むところの情報収集に専念した。方針としていた。ついに現在の河南省の西南部の南陽城という郡都(南陽郡三十六県の治所)まで南下し、これを一撃して秦の守将を奔らせた。この勝利によって、南陽城の武器と広大な南陽郡一帯の穀物を一挙に得、兵は大いに飽食し、かつ装備が充実し、旗幟は見ちがえるほどふるった。(これで、ようやく関中に入れる)と、劉邦は思い軍を部署し、全軍に命じ、関中への西進を開始した。   
 ときに、夏は過ぎようとしている。



                            ―次週へ続く―