「章邯将軍がいるかぎり、秦はかならず勝つ」
秦軍の総帥の章邯は、秦軍兵士たちの信仰ともいえる士心を得ていた。
「章邯将軍がいるかぎり、かならず勝つ」という強い信頼が、その諸将や士卒の間に自然に生まれていた。章邯はとくに演技をしてかれらの心を掴もうとしたわけではなかったが、かれに従っていればかならず勝つということが、人々の心を団結させた。
戦いを経るにつれ、元来、肥り気味だった章邯の体つきが、腱を捻りあげた鞭のようにしなやかになり、かつては丸かった容貌までが、頬肉がそげおち、顎が尖って、別人のように変わった。かれの容貌は、よく張った前額部が特徴的で、槌で叩きこんだ鉄のように固そうだった。この前額部はつねに傾いていて、何か絶えず考え込んでおり、優れた工人のように無駄口などは一切たたくことはなかった。
章邯は、工人肌の男だった。たとえば自分の作品である戦争という勝負事に没頭しているだけで、後方の宮廷に対し、政治感覚を働かせるという配慮をまったくしなかった。
咸陽では、かつて少府として九卿の末席にあり、いわば政治そのもののなかにいたはずであるのに、野戦に出ると生粋の職人肌の将軍になってしまったのは、元来そういう気遣いが嫌いだったのかもしれない。
咸陽では、異常な政治状態が続いている。宦官の趙高が一切の政治を壟断し、二世皇帝を独占し、このような無法な状態を直そうとした大臣や大夫たちは殆ど退けられるか、殺されるかした。章邯はそういう後方のことを考えまいとしていた。戦いを設計し、命を賭けてそれを実行し、勝ち、勝った利を一つずつ積みかさね、反乱軍を丹念に潰して行く以外に、秦帝国の安寧はない、というのが章邯の信念であった。
戦いの初期、章邯の連戦連勝は秦都咸陽をよろこばせていたことは確かだった。
その時期、二世皇帝が戦況に多少の関心をもっていた証拠に、二人の参謀を送ってきたことでもわかる。が、その後、勝ちいくさが続くにつれ、秦帝国の政府軍である以上当然のことだと思ったのか、関心を示さなくなった。というよりも宦官の趙高が、 「繰返し申しますように、朕の字義は万物の兆ということでございます。兆しは俗眼では見えざるものでございますから、上におかせられても、竜が淵の底に潜みますように禁中ふかく在して、人々に玉体をお見せ遊ばすな」と言い、やがて戦況も趙高が適当に捏造して言上することになった。前線の前に、二世皇帝胡亥の反応が 一切伝えられなくなった理由は、そのことによる。
戦いの初期に、二世皇帝が送ってよこした二人の参謀というのは、長史(三公の属官)であった司馬欣と董翳である。
司馬欣は、咸陽あたりではその職名の長史というのを姓代わりに使われて、
「長史欣」などとよばれていた。秦の官制では最高の官職を三公といい、次いで九卿という。三公の属官である長史にはふつう実務にたけた有能な人物が選ばれたが、司馬欣はとりわけ目はしが利き、才気があった。ただし属官としての才で、みずから首領になる器量ではない。章邯は、この司馬欣を重宝した。
営中での司馬欣のしごとは、主として情報の収集と選択であった。
章邯のいくさのやり方は、大半の精力を情報収集と分析に注ぐというもので、情報というのは敵の後方の政情や敵将の性格、政治的立場といったレベルから、戦場情報まであらゆるものをふくめる。
「司馬欣がきてから、わしは決定だけをする。じつにありがたい」
と、章邯はよろこんでいた。
しかし欣の多能さは、章邯の要求することだけにとどまらなくなった。味方である後方の咸陽の宮廷にも諜者を置き、その情報も大量に集めはじめたのである。
「要らざることだ」
と、章邯は叱ったが、司馬欣は、こんにち、将軍にとってはこの方が大切でございましょう、大屋根に登らされたあと梯子を外されてはどうにもなりますまい、といった。その懸念がないではなかった。
が、章邯にとって後方の情報は悪酒のように有害だった。気持が乱されるだけでなく、ときに戦意までが萎えてしまう。
「私には、聞かせてくれるな」 集めることはお主の勝手だが、とそのほうは黙認した。 もっとも、司馬欣はたまりかねることがあった。帷幕のなかで章邯と食事を共にしているときなど、
「これを黙っていると、私のはらわたが鎧えてしまいそうになります」
と、料理人に聞こえぬよう、小声でつい洩らしてしまうことがある。
馬と鹿の話であった。 咸陽の宮廷で趙高がやっていることというのは、恐怖人事である。法家主義をもって立国の基礎にしている秦は、官僚の日常行動まで法の細則で縛りあげて、罰則がじつに多い。
趙高のように秦法をすべて覚えこんでいる男にとっては、官僚個々の行動をじっと見ているだけで、かれらを法に引掛けて死刑にしたりすることは容易であった。趙高は、大小多くの官吏をこの方法で粛清してきたが、次第に人々はこつがわかってきた。要するに、保身の基本は法に触れぬようにするということでなく、趙高に気に入られるということだった。気に入られさえすれば、法に触れようが触れまいが、趙高は決して害を加えない。気に入られていなければ、適用すべき法がなくとも、皇帝の命令だとして殺してしまうのである。
趙高は、このようにして官僚を握りこんでしまい、秦の機構のすべてを自在にすることができた。
(しかし、官僚どもはどの程度、自分に服しているか)
ということが、趙高にとって絶えず不安だった。心服している人間など居るはずがないことを、元来ひがみっぽい去勢者であるかれは、よくわかっていた。誰が宦官を尊敬するであろう。
趙高は人々から心服されることを望むほど人間を愛してもおらず、信じてもいなかった。面従でよかった。徹底して恐怖心を与えて面従させ続ければ心服を得るのと少しも変わらない。これが、かれの政治哲学であったが、しかしそれを実験してみたくなった。実験しておけば、いざという場合に役立つ。かれの最終のもくろみは宮廷でクーデタをおこし、二世皇帝を外して自分自身が皇帝になるということであった。そのためには官僚を自分の側におさえこんでおかねばならない。
二世皇帝胡亥のある時期から、百官の拝謁ということはなくなっていた。皇帝のまわりにいるのは女性たちと、人にして人に非ずといわれた宦官たちだけである。あるとき趙高はこれら宦官と女官を試しておかねばならないと思い、二世皇帝胡亥の前へ鹿を一頭曳いて来させた。
「なんだ」
胡亥は、趙高の意図をはかりかねた。
「これは馬でございます」
と、趙高が二世皇帝に言上したときから、かれの実験がはじまった。二世皇帝は苦笑して、趙高、なにを言う、これは鹿ではないか、といったが、左右は沈黙している。なかには「上よ」と声をあげて、
「あれが馬であることがおわかりになりませぬか」
と、言い、趙高にむかってそっと微笑を送る者もいた。愚直な何人かは、不審な顔つきで、上の仰せのとおり、たしかに鹿でございます、といった。この者たちは、あとで趙高によって、萱でも刈りとるように告発され、刑殺された。群臣の趙高に対する恐怖が極度に強くなったのはこの時からである。権力が人々の恐怖を食い物にして成長してゆくとき、まま起る事がらというのは、みな似たような、いわば信じがたいほどのお伽噺ふうであることが多い。
このことを司馬欣が語りおえたとき、章邯は、
「なにか、説話でも聞いているようだ」
小声でいった。おそらくいまの話は咸陽で起こっている生な事実に相違なかろうが、それを信じてしまえば自分がいま戦場でやっていることも情熱も、すべて空しいものになってしまう。章邯は、自分の片脚を他の片脚ですくいあげてしまいかねないこの種の情報を、自分自身の精神のために怖れた。
「司馬欣よ、私には敵についての情報のほうがいい」と、章邯はいった。
「敵とは、章邯さまの敵でござるか」
欣は、秦人らしく韓非子ふうに、わかりきったことながら論理だけのための設問をした。敵反乱軍は、むろん私人章邯の私敵であろうはずがない。
「いや、敵とは秦帝国の敵だ」
「わかりました。しかし秦帝国の敵を、敵として苦闘しておられるのは章邯将軍お一人ではありますまいか。咸陽では、各地の反乱騒ぎを何ほどにも思っていますまい」
(自分の私的な運命について少しは考えるべき)と、司馬欣は言いたかったのである。
実際、咸陽の宮廷は前線についてはなにも知らなかった。戦場からの報告は趙高ひとりがおさえて握り潰し、二世皇帝には、各地の反乱軍は匪賊程度のもので官軍によって平定されつつある、というふうに報告し続けていた。二世皇帝が、もし函谷関以東の正確な戦況を知ったならば、いかに凡庸な皇帝でも電撃にうたれたように危機感を持ち、たちまち朝に出、百官を招集し、かれらから現況を聞き、その日から親政をするであろう。となれば、情報を封じていた趙高の悪謀が白日のもとにさらされ、その日にかれは没落するに違いない。趙高にすれば、天下はすべて無事でございます、と言い続けることによって、胡亥を宮廷の奥に閉じこめておく必要があった。
従って、二世皇帝胡亥は、章邯の苦労など何も知らない。
章邯は、鉅鹿城を包囲していた。
かれが、この大きくもない城を、幾重にも用心ぶかく包囲し、攻城用の土木工事まで併用して、ゆくゆくの勝利への布石を完全なものにしていたとき、飄風のように楚軍があらわれ、攻囲軍の前線をズタズタにし、狂ったように戦い続けてついに前線の将軍の王離をとりこにし、蘇角を戦死させ、渉間を敗軍のなかで自殺させるという、後方の本営にいる章邯にとっては信じがたい事態が起こってしまった。
棘原城外のかれの本営は、丘の上の民家が当てられていた。まわりが天日で干した煉瓦積みの塁でかこまれた大きな農家だった。家族や使用人たちは他に移っているが、五十頭ばかりの豚だけが残されていて、風向きによっては堪えがたい臭いが襲ってきた。それらが、空腹になると、騒がしく啼いた。章邯は、まわりの兵士たちに、豚に餌をやれ、とその都度命じなければならなかった。
この日の午後は、とくべつ寒かった。太陽はまるなりで出てくれているが、義眼のようで、熱っぽくも何ともなかった。章邯は体を動かさねばとおもい、茶色っぽい塁壁の内側をゆっくりした足どりで、幾まわりも歩いていた。
そのとき、司馬欣がついてきた。欣は、章邯に気づかせるために空咳をした。章邯が振り向くと、欣は軽く立礼し、こんどは足音を消して寄ってきた。
「以下申しあげることで、お驚きになってはいけませぬ」といって、間をおいた。
(また、咸陽のことか)
章邯は、司馬欣という男のそういう部分の有能さに助けられながらも、有能というものにも節度が必要だと思いはじめていた。
「王離どのは乱軍のなかで敵兵に縄をかけられ、渉間どのは絶望してみずから死に、蘇角どのは突撃してきた敵将のために盔ぐるみ頭を割られて即死いたしましてございます」
「なんの話だ」
章邯は、空から首すじに鉤でも引っ掛けられたように足もとが浮きはじめた。司馬欣がすすみ出て章邯を支えた。支えながら、楚軍が、全軍発狂したように襲撃してきたこと、その人数はわが軍のほんの一部程度に過ぎなかったが、このために将軍の前線はすべて風に散らされた落葉のように存在しなくなったということなどを要領よく伝えた。
「……楚軍が?」
章邯は頭の中の情報で詳しく知っていたが、しかしその総帥の宋義に戦意がないという情報も入っており、たかをくくっていた。
章邯にとって不幸なことながら、楚軍の内部までは知らなかった。内部に変革が起こり、宋義が項羽という者に殺され、以後、総帥の座に項羽が坐っているということまでは知らなかった。
もっとも知ったところで章邯はその楚軍観をあらためなかったであろう。項羽についての章邯や欣の知識は、定陶で章邯が敗死させた項梁の甥という程度でしかなく、何ほどのこともあるまいという固定観念があったからである。
その先入感は一挙に崩れてしまった。項羽観が崩れるのと自分の主力軍を失ったという報告とが同時に章邯に殺到したために、章邯の思考力は、停止した。頭の中に霧がただよっているように、何事も考えられない。
やがて、「兵力がほしい」 とだけ、章邯はいった。この段階では、兵力だけが思考の手がかりだった。退却するにせよ、決戦するにせよ、兵力がほしかった。
「敗兵を集めてみる」
それにはすぐさま四方に伝騎を発せねばならない。鉅鹿の戦場から逃げ散って方途もつかずに漂っている兵たちに章邯が健在だということを教え、かれらに士気を取り戻させ、一手に掌握する。章邯の意志は、むろん楚軍を潰すにある。それには、章邯さえいれば楚軍がほろび秦がふたたび栄えるという士卒たちの信仰の回復が必要だった。
「そのほうは、なんとか私がやる。欣よ、君はすぐ咸陽へ急行してもらいたい。皇帝に拝謁し、敗北の事実を言上し、兵を送っていただきたい、と申しあげてくれまいか」
章邯は、やっと行動のメドを得たようにきびすを返し、本屋に向かった。欣の返事をきかなかった。振返って、欣がそこに立ちすくんでいるのを見ると、「早く」 といって、追い立てるように本営から出した。
使者司馬欣は、一隊の軽騎をひきいて咸陽にむかって駆けた。ときに騎馬を用い、ときに舟を利用し、ついに咸陽に入り、衣服をあらためるべく、まず自邸へ。妻や家人が驚き、「もう、盗人たちは片付いたのでございますか」と、口々に言った。
これによって趙高の情報統制は、皇帝を騙しているだけでなく、市中にまで及んでいることがわかった。「いいや、いくさは、もう少しつづく」とのみ言い、服を着更えて馬車に乗った。
宮廷の司馬門に達し、衛士にむかって拝謁を申し出たが、かれらは何事かを怖れるようにして取りあわなかった。どの衛士も、欣の顔見知りの者たちだった。
「どうした」と、欣は叱り、「前線の章邯将軍からの急使でござるぞ」
といったが、衛士たちは沈黙し、知らぬ顔でいる。趙高の許可のない者を通してはどういう報復をうけるか もしれない。
いったん自宅へ帰り、思案し直した。まず趙高に会って許可を得ねばならない。しかし、趙高に会えるような伝手を司馬欣は持っていなかった。「誰か、趙高どののお気に入りの人を知らないか」と、欣は、翌日、伝手さがしをはじめた。 が、事態が欣にとって困難になった。鉅鹿の敗報が、この日の午後、噂として咸陽の町に伝わったのである。市でも、この話で持ちきりになった。噂は、趙高の耳にも入った。
かれはさすがにこの敗報を皇帝に伝えないわけにはゆかず、すぐ禁中の奥へゆき、
「章邯をお叱りくださいますように」
と、いった。敗報については、ごく簡単に伝えた。帝国崩壊というぐあいに皇帝に認識されては困るのである。
胡亥に対しては「いずれ天下は平らかになりましょう、しかし前線の将軍の失敗はすぐさまお叱りにならねば、かれらの気がゆるみ敗けを重ねることになりましょう」、といった。
「譴責のための勅使は、この場からお発たせになるのが秦の法でございます」
二世皇帝はその場で左右の者を見まわし、即座に勅使をきめ、趙高のいうようにその場から出発させた。
趙高はその翌日、前線から章邯の参謀格の司馬欣が咸陽に帰っていることを知った。司馬欣は数日前に帰り、拝謁を得るために司馬門の前にしつこく立っており、自分に会おうとして知人を密訪してまわっているという。 (もし胡亥に会わせれば、すべてが水の泡になる)趙高は冷汗が出る思いがした。
一方、司馬欣は伝手を見つける工作をあきらめた。趙高に可愛がられているといわれる人物を2.3見つけたのだが、かれらでさえ、欣の依頼に尻ごみし、ことわられた。
(それほど、趙高は怖れられているのか) 少しずつ司馬欣の眼に物事が見えてきた。
ともかくも、欣は司馬門で懇願した。こんどは、門内から返事があった。
「車のなかで御沙汰を待たれよ」 という。三日、待ったが進展はない。
(趙高が、おれを法に引っ掛けようとしている)
車に飛び乗るなり、駅者に、走れ、とどなった。自宅にも帰らず、そのまま咸陽の町を突っ切ると、はるかに函谷関をめざした。章邯の本営まで帰るのである。途中、ふと気づき、道を変えた。これが、命拾いのもとになった。趙高の追手がすぐそのあとを追ったのだが、かれらは本道を取ったために欣を捕まえることはできなかった。
司馬欣の報告を聞いた章邯はさすがに秦国朝廷における趙高の存在と自分の立場、そして部下の将兵たちの苦難を深く考慮して項羽の軍門に降るべく、降伏の軍師をおくった。
項羽はついに章邯の投降を受諾し、会見の場所は「殷墟」に指定した。
項羽は、殷墟の林の中に皮の敷物をしいて章邯を待っていた。
章邯が剣を脱しようとすると、項羽は大声をあげて 『そのままになされよ』と 言い、
章邯にも自分と同じ敷物を勧めた。降将の扱いではないばかりか、項羽が少年のような気持ちで『私はあなたを尊敬している』と、その戦い振りを讃えたとき、章邯の心を俄かな悲しみが襲い、心から哭いた。
秦の帝室で、誰が項羽のような言葉をかけてくれたであろうか。
