楚民の恨みの深さが『打倒 秦』のエネルギー。項梁・項羽はその望みを背負って立つ。 |  今中基のブログ

 秦は遺骸になった懐王を楚に送り返した。楚人はみな嘆き、憤り、秦に対する復讐を誓った。
 楚をそこまでなぶるのかという感情は、楚人であればこそであったろう。“例え たった三軒になったとしても、秦を滅ぼすものは必ず楚民である”という言葉が、当時叫ばれていた。
 項羽は、その最たるものである。「項」 というのは、河南省項域の地名で項氏はもともと楚の貴族で、古い時代、項という土地の領主になり、大いに同族は隆盛を誇りこの一族が地名をとって姓としたのが、項氏なのである。
 秦が強盛になって、楚をふくめた六国が衰え、とくに楚が受ける圧迫が甚だしくなった末期、楚軍を指揮して国運を何とか支えていたのが、項氏から出た項燕という将軍だった。

 名将項燕の名は秦を憎む人々の間に喧伝され、護符のような印象をさえあった。戦って強いだけでなく、部下を可愛がったことも、その名声は高く。項燕が死んでもなお、秦を憎む楚人の間では、“項燕将軍は死んではない。草叢に雌伏し、秦を滅ぼす機会を窺っているのだ、という伝説が言われ続けられていた。
 楚は、水景色の良い所が多い。
 長江が支流をうみ、湖をつくり、山には緑が多く、春など、朝に夕に靄がたちこめる。
 ――楚の山河には秦への恨みが沸き上がっているのだった―
 本ブログの前回、秦に対する最初の反乱に起ち上がった 陳勝・呉広もまた楚の農民だった。
 この時期にはすでに楚という国家は存在せず、地域名のみになっていたが。
始皇帝は六国を滅ぼしたあと、封建制を廃し、郡県制をとり、中国大陸という漢民族の広大な居住地を行政区分して、三十六郡とした。郡の下には、県を置 いた。いうまでもなく、郡が大単位であり、県は小単位である。かつての楚国の地は、南陽郡、南郡など三つばかりの郡名のもと楚の遺民は、始皇帝の人民になっていた。帝国の名のもとに役使され、長期の労働や軍役に駆り出される。 陳勝・呉広も仲間の百姓達とともに 辺疆の兵士として使われるために歩き続けているうちに仲間を煽って反乱に立ち上がったのだが、このとき陳勝は天下に呼びかけるにあたって、
 「おれたちは無名の百姓にすぎぬ。この名では天下は奮い立つまい」と、同志の呉広に相談し、陳勝自身は「扶蘇」と称することにした。扶蘇は言うまでもなく亡くなっている始皇帝の長子である。宦官の趙高の謀略で自殺させられてしまったのだが、天下の人々はそこまでは知らない。扶蘇は父の始皇帝のように暴君ではなく、つねづね父の皇帝を批判していたと言う噂を、陳勝は利用した。さらに、かれは相棒の呉広に対し、「お前は、楚の項燕将軍だということにしよう」といった。
 亡楚の項燕将軍はすでに故人ではあったが、その名がこういう場合に利用できるということからみても、この 将軍の名声がいかに大きかったかが分かる。

 この時期、揚子江に近い町で、「おれは、大きな声では言えないが、項燕将軍の子だ」と、ひそかに仲間たちに素姓を明かしていた五十男がいた。
項羽の叔父の項梁である。自然、項羽は故将軍の孫ということになる。本当にそうであるのかどうか、誰も確かめることはできない。中国は古代にあっても大家族制であり、楚の名将の項燕将軍ともなれば三百人、五百人という家族を抱えていただろうし、項梁という五十男がその家族の一員だったことはほぼ間違いなく、ともかくも貴族出身らしい典雅な容貌と身ごなしと、北方的な文字の教養を持っていた。
 楚の末期には、宮廷が多くの貴族やその大家族群とともに、諸方を流浪した。項梁も流浪した。
「故郷は、下相である」 と、項梁は言っている。いまの江蘇省宿遷県の西方にある小さな町で、相水という川が灌漑する地帯であり、町はその下流にある。相水の下流ということで、下相という。楚全体の旧版図からいえば東南角に片寄っている。戦国末期の乱世の中で、この下相が項一族のうちの一派の落ち着き場所だったことは確かで、項羽もまたこの下相で生まれた。楚が亡んだとき、項羽はわずかに十歳であった。父は、幼い頃に亡くなった。
 叔父の項梁に引き取られたために、項梁が父親代わりであり、同時に家庭教師でもあった。「荊」の楚人ながら、中原の漢民族の命名法による名をもっている。やがては項羽の敵になる漢の劉邦が、漢民族の居住地に生れながら、僻地のせいで碌に字(あざな)も持っていなかったことを見ても、項羽が中原の文化を十分に受容していた家の子らしいことが分かる。
 むしろ荊蛮の良家のほうが中原の文化を濃く受け、中原でも、劉邦のような田舎に生れると、中原紳士としての装飾が稀薄であるのかもしれない。この多人種が混住している大陸にあっては古来、人種論は問われず、中原の文化にさえ参加すればすでに「蛮」ではないとされた。たとえば項梁や項羽が、中原の名前を持ち、中原の服装で居ればそれだけですでに蛮人ではないとされた。ただ項羽の性格を見ると、いかにも江南の荊蛮の若者という感じがしないでもない。


 項梁は十歳から育てた項羽を可愛がった。項羽は敏捷でカンがよく、そのうえ途方もなく腕っぷしが強かった。その腕白での無茶振りは、保護者が項梁でなければとても手のつけられぬものだった。項梁も、ただの典雅な容貌を持った紳士というだけの男ではなく、かつて人を殺めたこともあり、暗い無法者の社会とも繋がっていた。彼が項羽を連れて転々としていた理由には、楚の遺臣だったということよりも、むしろ被害者の遺族の復讐を避けるということのほうが大きかった。 この流浪のなかで、項梁は、この甥に文字を教えた。「こんなものが憶えられるか」 と、項羽はそのつど駄々をこねた。
 この時代、楚人にとって漢字は覚え難いものであった。項羽が十歳の頃に秦帝国ができあがって、それまで地域によってまちまちだった漢字を整理し、一大統一を行なったのだが、項梁の教養は、多分にそれ以前の楚のものである。楚だけにある独特の文字も教え、秦の文字も教える。
「同じ意味ではあるが、これは楚の文字である。こちらはあらたな秦の文字である」などと教えられれば、項羽ならずとも混乱してしまう。
 一方、秦は騎馬民族との雑居地帯というべき未開地より興ったが、早くから法家思想という簡潔な合理主義による国家運営法をとっていたことと関係があり、文字の書き方は簡素かつ実用的で、どの文字も、憶えるにも読むにも、他地域より簡単と言えば簡単だった。
 項梁は、楚の伝統的な教養を継承しており それに、秦を激しく憎んでいる。文字ひとつ教えるにしても楚の奔放華麗な、つまりは絵のような書き方を項羽に示し、秦の書き方については  
 「秦では、こうだ」と書き、「まあ、秦のほうも憶えるだけは憶えておいたほうがよい」
 いわば、補足として教える程度だった。項羽はついに棒を折り、

 「叔父さん文字など、自分の名前が書けるだけでよいではないか」

 といってやめてしまった。
 項梁は、学問が甥の性分にあわないとすれば無理に強いることはあるまいと思い、つぎは剣術を習わせた。ところが、項羽はこれも途中で放り出した。基礎動作の繰り返しが、退屈でだったに違いない。さすがに項梁も腹を立て、

 「いったい、おまえ、そういうことでどうするのだ」
と言うと、項羽は、剣などをいくら習ったところでただ一人を倒すだけじゃありませんか、と言いかえした。

 「もし万人を相手にする術があれば、それを習いたい」
 と言うと項梁はこの甥の言葉をむしろ喜び、兵法を教えた。兵法は項梁の得意とするところで、自ら兵書を講義した。項羽は一度聴くと大略が分かってしまうので、それ以上は聴くことに飽きた。
 「兵法も、退屈なものですな」と、放り出した。

 このため兵法もさほど綿密に究めたわけではない。ただ、項梁は (この子はカンはいいのだから)と、項羽の才幹に失望しなかった。項梁の情熱は刃物のような形をしていた。秦の天下を覆して王になるというより秦を討って亡父項燕の恨みを晴らすということが望みだった。
 「亡父の仇を報じたい」と、口のかたい友人たちに洩らしていたが、そのように洩らすことによって自分が項燕将軍の実子であることを仲間に信じさせようとしていたのかもしれない。ともかくも、(ひとたび乱がおこれば、項梁は英雄として人心をとらえるに違いない) とは見ていた。
 この点、項羽より項梁のほうがはるかに年配者のあいだで人気があった。項羽は年若すぎたし、項梁の用心棒程度にしか見られていなかった。
 ところが、項羽は二十前になると、身のたけ八尺を越える大男になった。秦の尺は、一尺は二十三センチだから八尺で一八四センチメートルだが、この背丈は矮小な体格の多い江南の田園や市中では大いに目立った。それに力は鼎を持ちあげるほどにつよく、さらには頭脳の回転が早く、一種匂うような愛嬌もあった。この項羽の肉体的な雄大さと人柄とは、叔父とともに縁を結んでゆく土地々々で、若者たちの人気を得るようになった。すでに叔父が有力者たちの信望を得ている。それとあいまって、かれらは一種の勢力をなしていたといっていい。
 この叔父と甥が最後に腰を落ちつけたのは、呉中(いまの蘇州)の町である。 呉中は春秋の呉国の旧都で、呉国がほろんでからも、単に「呉」といえばこの都市のことを指した。はるかな後世、この 呉の発音が漢籍や経典とともに東方の朝鮮南部や日本に伝わって呉音となり、また絹織物をつくるこの土地の方式もったわって呉服とよばれたりした。
 中原からみれば呉人はあるいは南方の蛮族かもしれなかったが、しかし広義の呉の地域というのは揚子江と銭塘江の二つのデルタを占め、稲作の最適地として大陸においてはもっとも豊沃で、人口も多く、さらには都市の呉中は大地のあぶら肉ともいうべき以上の後背地と水運の便のよさによって、秦の時代といえども華やかな繁栄をみせている。
 「このにぎやかな町で、すこし根を張ってみよう」
と、項梁は項羽に言い、言動に注意させた。人心を攪ろうとする者は人に嫌われることがあってはならないのである。 項梁は、多少の財は持っている。
 それに学問もあり、世間の話題に富み、よく人の世話もした。このためたちまち町の顔役になり、
 「なにごとも項梁どのに相談し、その言うことに従っていればまず間違いはない」 といわれるようになった。その存在は、一種の遊侠の親分にちかい。
 項梁は町の顔役として、秦の郡治の役所や県治の役所にもよく出入りした。
秦帝国は設通という者を派遣してきている。その管轄地域のひろさを、つい二十年前までの封建時代の感覚で言えば一国にひとしく、長官はかつての国王といえるような勢威もある。
 「殷通は、王でしょうか」 項羽は、叔父にきいたことがある。

 「王ではなく、官だ」
 叔父はこたえた。秦には、封建割拠の王というものが存在しない。
 「王と官は、どのようにちがうのです」 「似てはいる。しかしちがう」
 そのあたりの機微がおもしろい、と項梁は、秦の始皇帝が発明したこの一大官僚組織というものの説明を項羽にした。王ではないことの一つは、かつての王が私有したような軍隊をもたず、地方駐在の国軍の監督をしているだけの存在だ、ということである。
 かつての王は怠けていても家臣がなんとか切り盛りしてくれたが、秦の地方長官はそうはいかない。かれらは始皇帝の権力の代行者として管轄地の人民にのぞむ。かれらから租税をとりたてる。それをかつての王のように自分のものにできず、経費分を差引いてすべて始皇帝のもとに送らねばならない。

 「官とは、給料で雇われた王ですか」と、項羽は聞いた。かれは新しい『官』 というようなものより、古い王のほうが好きであった。

 「まあ、そうだ」 叔父項梁はうなずいた。


               ―次週へ続く―