帝王、英雄から、戦略家、道化、暗殺者まで、権力への距離は異なっても、それぞれの個性を発揮し、自らの力で歴史に名を残した人物たちの魅力は、現代でも色あせることはない。まさに『事実は小説よりも奇なり』人間ドラマこそ歴史そのものであることを、司馬遷の『史記』が証明している。
中国人のみならず、われわれ日本人にまで本物の感触を伝えてくれる。中国の歴史をたどると紀元前の幾百年の時代にも、三国志時代以上に激しい人間ドラマが展開されている。
特に秦始皇帝の天下統一までは春秋戦国時代と呼ばれ、諸侯の覇権争いが歴史そのものである。春秋周王朝の時代は春秋と戦国の二つに分けられる。BC722 年に魯が自国や列国の出来事を春夏秋冬にわけて記録はじめたころが春秋の始まりで、約300 年後のBC481年に春秋時代が終わりとされている。そして、大国、晋が、韓、魏、趙に分裂されて間もない前403 年から、前221 年に秦の始皇帝が天下統一するまでを戦国時代と呼ばれている。
また、秦始皇帝が天下統一を行ったものの、その暴政に住民が発起したなかで、項羽と劉邦が出てきた。乱世になると、賢人や猛将が多く出てくるのも世の常である。
この時代には様々な人物が世に出たが、歴史を後世に残したのは漢代の司馬遷であり「史記」にまとめられている。
そこには、数百年の歴史が人物ごとに記されているが、特に楚と漢の攻防を描いた「項羽と劉邦」は、司馬遷が最も躍動感溢れる描写で記載している。その人間の生き様や考え方は、三国時代はもちろん、現代でもあらゆる場面で引用され参考にされている。現在でも春秋戦国時代の様子がわかるのは、大歴史家の司馬遷がいたからこそである。
わが国でも「史記」は室町時代を通じて、公家・学僧の間で親しまれた。
『史記』巻130 太史公自序によれば、『史記』は『太史公書」といい、130 編で52 万6500 字にのぼったという。漢代にはすでに紙が作られていたが、まだ普及はしていなかった。書物は竹簡や木簡あるいは帛に書かれていた。帛は平織りの絹地に書いたもので高価な素材であるので、竹簡がもっとも一般的に普及していた。
「史記」全文の分量は、竹簡の長さと1 枚あたりの文字数による。1 尺2 寸(約27cm)の長さの竹簡に一行35 字書き込めば15000 枚になる。書写の文房具として硬、墨、毛筆そして小刀なども出土している。漢代の画像石には竹簡の束をもつ場面が描かれている。 今回は新たに作成した竹簡のレプリカに、司馬遷の時代の書体(漢隷)で筆写している。
以下に中国の古代を大きく分類し、歴代の名称と年代。あわせて 同時期 わが国の様子を記してみた。
秦の始皇帝・漢を興した劉邦この時代はわれわれ日本人の多くが認識を持っているが、漢王朝には前漢と後漢とがあり間に新という時代があった。
秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によってBC206 年に建てられ、長安を都としたのが前漢。
前漢:西の長安に都したことから西漢と呼ばれ、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。
新(BC8 年 -BC 23 年)は前漢と後漢の間の王朝。前漢の外戚が前漢最後の皇太子より禅譲を受け建てた。(新都は荊州南陽郡に在る)
国号を新とし、周の時代を理想とした政策を行なうが、その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合わず国内は混乱、1 代限りで滅んでしまった。
上記の年代一覧表を見ても分かるが 秦始皇帝が中国を統一した時期は(BC259 年~BC210 年)でわが国では弥生時代の中期である。
この頃中国では文字の統一、貨幣の統一、度量衡の統一、などが実施されており、万里の長城の建設が行われたのである。20 世紀になって分かったのだが、あの兵馬俑もこの時期に創られていたのだから、まさに驚く外はない。
中国の歴史上の人物で最もなじみ深く有名なのは何といっても秦始皇帝であろう。これほど著名にさせたのは他ならぬ司馬遷であり、彼の遺した史実を纏めた『史記』であることに異論はない。
秦始皇帝は嬴(えい)、氏は趙(ちょう)、諱は政(せい)中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗った。歴史上の重要な人物であり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者である。統一後始皇帝は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行した。
従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行った。しかし、万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などを、多くの人民に犠牲を払わせつつ行った。また、法による統治を敷き、焚書坑儒を実行したことなど悪行の面でも司馬遷の『史記』により広く知られている。
次週は司馬遷についてさらに深く考察を進めることにしたい。