オリジナルはなかなかない | セセデブログ

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変な人がいるとする。

この「変な人」は、

自分を基準にして見ると変なだけで、

絶対的な意味で変なわけではない。



そう考えると、「変」は中立なもの。

中立的であるがゆえに流動的で、

扱い次第では、変だったり、変じゃなかったりするわけだ。



では、そんな中立的なものを、

片方に傾斜させるものは何か。



多分、昔はネクタイをすることは変なことだった。

しかし、今では当たり前のことになっている。



このように考えると、

大衆が中立を傾斜させるという力を持っていることがわかる。

云々かんぬん…。



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このような話を最近、本で読んだ。

文章や結論に至るまでの展開、挙げた例などは、

その本に書かれているのとは全然違うが、

内容は大体このような感じだった。



さて、ここで一つ思う。

上に書いた文章は、パクリなのか、オリジナルなのかと。



まず、「読んだ本の内容をまとめた」と

書き手が認識しているので、

オリジナルとは言い難いだろう。



では、パクリと言えるのだろうか。

内容は確かにパクっているが、

書き方や単語はどれも、自分が選んだものたちだ。



少年漫画を例に挙げると、わかりやすい。

作品の多くが以下のような流れだ。

「強い敵に出会う→主人公が負ける→修行する→再戦後、勝つ」



キャラやセリフ、絵が異なったとしても、

大まかな内容は同じ。

これはパクリになるのだろうか。



これをパクリと見るぐらい、物事を抽象的に見た場合、

「十人十色」という言葉は雲散霧消すると思う。



確かに世の中にはいろんな人がいるが、

考え方は、十人十色と言えるほど多様ではない。



日本に住む半数以上の人の考え方は、

「いい結果をもたらすものこそが正しい」という

プラグマティズムではないだろうか。



さらに文章の場合、究極的に言ってしまえば、

日本語を使っている時点で、パクリということになる。

使用する単語のほとんどすべて、先人が作ったものだろう。



最近、自分のオリジナリティを主張し過ぎる人を見た。

それは、結構はずかしいことではないかと思う。