どもです^^

 

『こんなの風邪だ!~騒ぎすぎだ~』

『いや、違う!危険なウィルスだ~』

とあちらこちらで騒動になっている

コロナ禍ですが……

 

まぁ~そもそも「風邪」という表現や

捉え方自体が、主観的で概念的ですよね。

だって風邪って、ウイルス感染症ですから。

 

風邪といえば、いえなくもない。

ただ…ヒトコロナウイルス感染症の中でも

後遺症や合併症がリスクとして存在する

やっかいな風邪だということ。

つまり重症化の恐れが高い感染症だということです。

 

感染するリスクだけでなく

感染させるリスクを考えたとき

最善の対処を望むことは、当たり前の話です。

多くの方は、そんなリスクのあるものに感染したいとも

感染させたいとも思わないはずです。

 

その一方で感染した人たちは、まるで加害者のごとく

糾弾され、社会的制裁を受けるという社会構造が

ますます問題を厄介にし、感染拡大防止を阻害しています。

 

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これって日本的な文化だと思うんです。

残念ながら日本のリーダーシップと欧米のリーダーシップとでは

意味も捉え方も、役割も違うのです。

ある意味、日本の中でリーダーシップを発揮できているひとは

極めて少ないと思われます。

 

それは政治の世界をみれば一目瞭然で

真のリーダーは政治家にはいません。

明確ではない方針、コロコロ変わる指示

その中で組織のメンバーは意図をくみ取って

忖度しながら、様子見をしながら進めていくのです。

今回のコロナに対する対応も然り、

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国と都の意見が違う、対応が食い違う

政治家と官僚は「国民」のことよりも

現状維持(硬直した社会制度)が大事で

コロナ対策も遅々として進まない状況すら

それが異常であることに誰も異を唱えない。

 

曖昧な自粛要請とGOTOキャンペーン

皆が我慢している状況を「素晴らしい」と評価するだけで

対処や支援は「自己責任」

 

「組織のルール」「組織の維持」が最優先で絶対事項

「組織が最重要=自己目的」になっているのです。

 

こんな状況にも関わらず国民は怒らずに、政府のいうことに従い

相互協調的な部分を優先させることが正しいと信じています。

大東亜戦争当時と精神構造の面では

我々は何一つ変わってはいません。

 

リーダーシップが発揮されていない社会の中で

お互いが一歩前に踏み出すことなく、機能だけを優先させる国民性

 

自分の判断・考えに基づくものではなく、形式に基づく主体性の喪失

そのひずみは、他者を見張り、相互に監視し、糾弾する集団へと変わり

「意味のない正義をかざす自粛警察」のような人々を

沢山生み出しています。

 

他者に関する「非寛容」さの正体は、この相互依存的な心理です。

構造的な不満や苛立ちを、他者を責めたり糾弾することで

解消しようとしている極めて利己的な行動原理です。

 

政府はおそらく「弱毒化を見込み、むしろ死者や重症者をださずに

静かに市中感染を拡げていきながら、当たり前のウイルスとして

国民生活を犠牲にせずに、付き合っていける状況を待っているのでしょう」

 

怖いのはウィルスではありません。

怖いのは我々の「非寛容さ」だと思うのです。

この世界に「絶対的な正義」など、一切ない。

いまこそ「忖度」「非寛容」と決別すべきだと

私は思っています。