ひとりのキリスト者として

ひとりのキリスト者として

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

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2:1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、

2:2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

2:3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。

2:4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

2:5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。

2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」

2:7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。

2:8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

2:9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。

2:10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。

2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。



【ベツレヘム】

 マタイの福音書の2章を読んで頂きました。2章の2節をもう一度お読みするとこうあります。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:2) 博士達は星を見て、「ユダヤ人の王が生まれた」ということを知ったので、その方を拝みに来たのですが、彼らはその方が生まれた場所を知りませんでした。それで 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」(マタイ2:2) と尋ねるのです。そうするとヘロデ王は祭司長や律法学者達を集めて、「メシヤはどこに生まれることになっているのか」(マタイ2:4) と問いただします。すると彼らは答えます。 「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」(マタイ2:5-6) 彼らから 「救い主が生まれるのはベツレヘムだ」 と聞いた学者達が外に出ると、星が彼らを幼子のいるところまで導いてくれました。 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

(マタイ2:9-11) 



【博士の喜びと王の不安】

 救い主に出会った博士達は喜びにあふれました。しかし、「ユダヤ人の王が生まれた」と聞いたヘロデ王とエルサレムの住民達は 「不安を抱いた」(マタイ2:3) と聖書は伝えます。この「不安を抱いた」という言葉は、「恐れ惑う」とか「掻き乱す」とか「動揺する」といった意味の言葉です。彼らは「ユダヤ人の王が生まれた」と聞いて「恐れ惑い」「心を掻き乱し」「動揺した」のです。一体、何が彼らをそうさせたでしょうか。


 「ユダヤ人の王が生まれた」と聞いて、ヘロデ王が不安を抱いたのは当然であると思います。新しい王が即位すれば、彼の立場はなくなるからです。兄弟であろうと敵対する者、あるいは自分の地位を脅かす可能性のある者をことごとく殺すことによって自分の地位を守ってきたヘロデ王ですから、新しい王が生まれれば自分がどうなるかはよくわかっていたでしょう。しかし、エルサレムの人々も「不安を抱いた」とあるのは何故でしょうか。彼らは「王」ではありませんから、新しい王が即位したからと言って、自分の地位が奪われるわけではありません。ヘロデ王が失脚するのを恐れたのでしょうか。あるいは、ヘロデ王と新しい王との争いに巻き込まれるのを恐れたのでしょうか。それはわかりません。しかし、この「エルサレムの人々が不安を抱いた」という事を通して、ひとつの事を考えてみたいのです。それは、私たちも王様なのだということです。



【心の王座】

 つまり、こういうことです。私たちの心の中には、ひとつの椅子があります。私たちの心に王座があるのです。この王座に座っている自分は、自分自身に命令を下すことができます。自分の価値観に従って、自分の心を楽しませるために、自分のしたい通りに、思い通りにすることができます。しかし、新しい王が来た時には、この王座もまた譲らなければならないのです。何故なら、もともとこの王座は、そのお方のものであるからです。



【アルコール依存症の兄弟】

 最近、ある兄弟の家庭の話を聞きました。彼の家族は、両親と二人の姉のいる5人家族でしたが、父親のアルコール依存と暴力に家族は苦しんでいました。母親は夫の暴力から逃れるために離婚しましたが、子供達のためを思って後に復縁しました。家庭は落ち着ける場所ではなく、ただ父親の様子を伺い、暴力におびえる日々でした。そんな中でふたりの姉が変わったと言うのです。今までは、父親の暴力を怯えていたのに、そんな状況の中に会っても何故か落ち着いて、喜んでいるように見える。そして、何かふたりで変な歌を歌うようになったというのです。二人の姉は教会に行くようになったのです。それを見た母親は娘達が変な宗教に騙されたと思ったんですね。そんな怪しい所から娘を取り戻すために、自分が教会に乗り込んだのです。そうするとミイラ取りがミイラとなって、母親も神様を信じるようになったのです。次に長男が救われます。そして最後に父親がイエス・キリストを救い主と信じたのです。その時、父親の身体に劇的な変化がありました。父親の体がアルコールを受け付けなくなったのです。クリスチャンになったからアルコールをやめようと思ってアルコールを断ったのではないのです。もう身体が、アルコールを受け付けなくなったのです。その後、10年程、彼は病気に苦しみながらも、それまでとは全く違った人生を生きて天に召されました。



アルコール依存の父親にとって、アルコールとはなくてはならないものでした。「そんなものなくても」と私たちは思うかも知れませんが、その父親にとってはそうではありません。それがなくては生きてはいけないものです。それを失くしてまで生きていたいとは思わない程に大切なものだったです。それを失ったならどうやって生きていったらいいのか、毎日をどう過ごせばいいのかわからない、そのようになくてはならないものだったのです。しかし、キリストを受け入れた時に、その心配はなくなりました。キリストを受け入れた時に、それまでなくてはならない大切なものだと思っていたものが、必要のないものになりました。変わったんですね。心の王座に自分が座ることをやめて、それまで自分が座っていた椅子を主にお返しした時に、彼は変わったのです。価値観がまったく変わったのです。心の王座から下りた時に、「自分が中心」だった世界から「神様が中心」の世界に変わったからです。変わろうとしたのではありません。そう変えられたのです。この「自分中心」だった世界が、「神様が中心」の世界に変えられることを「悔い改め」と言います。



【パウロの場合】

新約聖書の書簡の大部分の執筆を委ねられたパウロも同じようにされました。彼はキリストの弟子を迫害する熱心なユダヤ教徒でした。フィリピの信徒への手紙の3章にはこうあります。


わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。(フィリピ3:5-8)


パウロにとって自分がベニヤミン族出身のヘブライ人であること、ファリサイ派の一員であること、律法を守ことにおいて非の打ちどころのない者であること、それら事は彼の誇りであって、何よりも大切なものでした。それが彼を支えるものでした。しかし、彼もまた変えられて わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切(フィリピ3:8)  が損失だというのです。彼もまた心の王座を主イエスに明け渡したひとりなのです。



【わたしの命を守るために】

 ヘロデには自分の王権が失われるのではないかという恐れがありました。実際、そのことを恐れて、イエス様が生まれたと思われるベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の子供を一人残らず殺すという暴挙にでます。自分の王権を守るために罪を重ねなければならなかったのです。しかし、心の王座を主に明け渡すなら、ヘロデのように自分を守るための戦いを続ける必要はありません。私たちの命を守るために戦って下さったのは主イエスだからです。何故なら、この方が私たちの罪の咎を十字架の上で引き受けて、私たちの救いを完成して下さったからです。では何故、この方の十字架が必要だったのでしょうか。何故、この方が、イエス・キリストがこの世界に生まれなければならなかったでしょうか。何故、この方でなければならなかったのでしょうか。



【汚れ】

 先月(11)、私たちはクリスマスを前に教会堂の大掃除をしました。私が担当したのは道路側の窓ガラスです。ガラスクリーナーを吹きかけて布切れで拭いてきれいにするのですが、ガラスが乾くと白い線が浮き出てきて全然綺麗にならないんですね。そこでもう一度濡れた布で拭いて、そして奇麗な乾いた布で仕上げをするようにしました。それでも駄目なのです。確かにきれいな乾いた布で仕上げの拭き取りをするなら、理屈の上では完璧にガラスの汚れをふき取れるはずです。しかし、実際には完全にきれいにはできないのです。何故でしょうか。それは仕上げの拭き取りをする乾いた布が完全ではないからです。きれいに見える布自体が完全にきれいな物ではありませんし、一度でも使った布はそれ自体が汚れてしまうので、その布で仕上げをしようとすると、今度はその新しい汚れを広げてしまって一層窓ガラスは汚くなるのです。汚れた窓ガラスをきれいにしたいなら、汚れのない完全な仕上げの布を用意する必要があるのです。




【汚れのない完全なお方】

 私たちの罪をぬぐうためにも、汚れのない完全なお方、つまりイエス・キリストが必要だったのです。このお方だけが、私たちの罪の咎を引き受けて、清めることがおできになります。何故なら、この方は神であり、罪がなく、そして私たちの罪の贖いのために人となって下さった方であるからです。この方が、今日、あなたのために生まれて下さったのです。私のためにも生まれて下さったのです。



【神は我々と共におられる】

 心の王座を下りる時、人はすべてを失うように思うかも知れません。そして、キリストを信じることによって、世の中を生きにくくなると思うかも知れません。確かにその通りです。聖書には主を信じる者が 「死の影の谷を歩くときがある」(詩編23:4) と書いています。しかし、「わたしは災いを恐れない」(詩編23:4) とその詩人は続けます。何故なら、 「主が共にいて下さるから」(詩編23:4) です。聖書もイエス様についてこう記しています。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイ1:23)



【義の栄冠】

 憐れみ深い神様は、この心の王座からおりて王権を失ったかに見える私たちに、再び王の象徴である冠をかぶらせて下さいます。聖書にはこう書いてあります。

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。(テモテ二4:7-8)


 義の栄冠とは「正しい清い者である」と認める冠です。誰の正しさですか。私の正しさではありません。イエス・キリストの正しさです。イエス・キリストの清さです。このお方が十字架の上で私たちの罪の贖いを完成して下さったので、私たちはこの冠を頂くことができるのです。この朝、私たちの王座をキリストに明け渡しましょう。