神が自然に生えた枝を惜しまなかったとすれば、恐らくあなたを惜しむこともないでしょう。…彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は彼らを再び接ぎ木することがおできになるからです。もしあなたが、自然のままの野生のオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、良いオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。(ローマの信徒への手紙 11章21-24)

 

オリーブ(シソ目モクセイ科オリーブ属,和名ヨーロッパオリーブ)は、

聖書の世界では、見慣れた栽培植物です

乾燥に耐え、温暖かつ少雨の地中海沿岸に広く分布しています

 

また、低木ながら寿命が長いこと、

そして非常に硬い木で、幹や枝が折れて枯死し難いことから、

1本1本の木が、古い時代から続けて栽培されることが、

非常に多かったようです

 

1本の木あたり、大量に果実が採れます

その果実には良質なオリーブ油が豊富に含まれ、

油を搾り取る他、生や塩漬けの果実が、

様々に調理され、地中海周辺の各地域において、

代表的な食材とされて来ました

 

そのような性質に加え、

オリーブ属の植物は、調べられた種は原則的に、

自家受粉によっては、ほとんど実を付けません

これは自家不和合性と呼ばれ、

植物の中では、かなりの少数派です

 

この自家不和合性を持つ植物は、

自家受粉によって、新しい遺伝的形質を品種として固定できる種に比べ、

常に遺伝子が交じり合うことにより、

一般的に、新しい品種が生み出されにくいという特徴があります

野生種の中で、突然変異が生じる可能性が小さいわけです

どちらかというと、栽培している中で、

たまに優れた性質を持つ株が現れる可能性の方が高いのです

 

その意味では、長寿で、

農家により、はるか祖先の時代から育てられている木は、

本当の野生の株と、ほぼ性質が同じわけです

当然、永年その場所で生きてきているわけですから、

その地域での病害,虫害,天候変化への耐性が強く、

元気に育つ可能性が高いことになります

 

樹木、特に果樹の品種改良では、

実生という、種から育てる方法は、可能ではありますが、

成長して多くの実をつけるまで、長い年月がかかります

そのため、西洋では、昔から接ぎ木が主な品種改良の手法でした

根の側の品種ではなく、

接ぎ木された枝の側の遺伝的性質が、そのまま表われるため、

時間も経費も節約できるうえ、

病害等への備えとしても、接ぎ木は優れているのです

 

その意味で、冒頭に掲げた、聖書の言葉は、

現実とは離れた、農業としては、意味を持たない内容です

だいたい、接ぎ木された先の枝は、

根の側の性質を持たないわけですから、

良い性質を持ったオリーブの木を切取り、

そこに他の(良い性質と言えない)枝を接木すること自体、

全くナンセンスです

 

それだけでなく、「野生のオリーブの木」とは、

恐らく栽培も長年されている、原種ともいえる株です

それを良い性質≅突然変異等による優れた実を実らせる株に、

わざわざ接ぎ木して、弱い根と平凡な実を持つ木を作るなど、

誰もするはずもない愚行です

 

この文章は新約聖書、ローマの信徒への手紙にあります

著者はキリスト教が世界宗教となる過程で活躍した、

パウロという宣教者です

この箇所は、良い木はユダヤ人、野生の木は異邦人

つまりイエス・キリストの犠牲により救われたキリスト教徒に対し、

自分たちがユダヤ人より優れていると、

思いあがってはいけないという意味です

その話の趣旨自体は、問題ないと言えますが、

挙げたたとえにより、パウロが情けないほど全く農業に疎いこと、

にもかかわらず(したり顔で恥をさらす)農業の話をあえてしている

そのことを知らされる話なのです

 

パウロの挙げたこの話のたとえが、全く的外れであることに、

私が知る限り、キリスト教の説教や聖書註解で、

触れたものは見当たりません

現在のキリスト教関係の人々が、

いかに聖書の中の農業の内容に、無関心であるかを、

図らずも示しています

 

しかし一方、福音書の中に、イエス・キリストの農業に関するたとえ話が、

非常に多く、しかも適切な内容であることは、

よく指摘されています

イエスはおそらく、ほとんどが専業あるいは兼業の農民である庶民に、

教えを伝えるため、多く農業や自然に題材を取り、

話をしたのでしょう

 

それが多くの人々に、強い印象を与えていたため、

パウロのような後の世代のキリスト教指導者も、

たとえ知識はなくとも、

何とか農業にことよせて、

話をする慣習があったのではないかと思われます

一見ナンセンスな間違いでしかないこの話は、

逆説的に、イエスと農業,農民の、

深い絆の上に、その後のキリスト教信仰が成立っていったことを、

私たちに教えてくれているのではないでしょうか(2024.6)