狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。」 イザヤ書11章6-7

 

すみません

年末に家族が入院し、手が取られ、なかなかこのブログを書けませんでした

考えていることは、少しはあるのですが…

 

そこで年頭に当たり、旧約聖書イザヤ書1-39章の、

第Ⅰイザヤと呼ばれている、預言者の言葉にちなんだ話からです

一応ギリギリ、生き物に関する話とお受取り下さい

 

ここに描かれている世界は、肉食動物と草食動物が、

安心して一緒に寝そべったり、草を食んだりしている、

人間の思描く「弱肉強食」のイメージとは全く違う、

共に平和に生きる、理想のイメージです

 

そこに小さい子どもも出て来るのは、

ユダヤ教で特に、

弱く親の庇護がなければ何もできない存在とされている、

ヒトの小さい子どもにこそ、

より強い動物が素直に導かれていくという話です

 

イザヤ書は実は、違う時代の預言書が1つにされた書物で、

その中で共通した、複数の預言者たちの言葉は、

現実に今生きている世界に対しての言葉と、

未来の世代に対しての言葉、

その2つの言葉を重合わせて紡ぐ、

重層的な預言として、知られています

 

私は、この野生動物が共に平和に生きるイメージについて、

題に掲げたとおり、1つの作品が強く思い浮かびます

これは、団塊の世代からその少し後の世代にかけては、

かなり共通に感じる作品ではないかと、思っています

 

それが、手塚治虫の『ジャングル大帝』です

白い獅子レオが、

動物同士殺合わない平和な世界を作ろうとし、

また人と動物との共存を求めていく物語です

 

この『ジャングル大帝』について、ディズニー『ライオン・キング』が、

『ジャングル大帝』に内容があまりにも似ていることが、

当時大きな話題になりました

 

60年代に夢中でTVを見ていた者としては、

『ジャングル大帝』に軍配を上げたいと思っていましたが、

手塚治虫の息子が問題ないと言って、騒ぎは収まったとのこと

作品の素晴らしさを信頼しているからこその、

言葉なのだと思われます

 

また、キリスト教文化圏の中で、預言として有名な

上記のⅠイザヤの言葉が、

『ライオン・キング』の着想につながったという受止め方も、

出来ないことは無いだろうとは思います。

『ライオン・キング』も、良い作品であるという評価は多く、

それは間違いないのだろうと、私も感じます。

 

しかし、その『ジャングル大帝』と『ライオン・キング』には、

大きな違いがあります

『ライオン・キング』でシンバは、

王になって妻と子を得、平和に暮らしました、で終わるのですが、

それより前に描かれた『ジャングル大帝』では、

更にその先に、悲劇的な結末があります

 

『ジャングル大帝』は、

子どもの頃見たTVから強烈な印象を受けました

また、放送ではレオの子ども時代の『ジャングル大帝』と、

大人になってからの『ジャングル大帝 進めレオ』の2部作で、

『進めレオ』の方は原作の漫画とかなり内容が違います

ここでは原作の漫画作品について考えます

 

レオは人の言葉が話せ、

また他の動物たちにも人の言葉を覚えさせ、

共存を進めようとするのですが、それでも、

アフリカの開発を進めるヒトとの衝突は続きます

 

その中で、多くの動物たちの命を奪う疫病が流行し、

レオはヒトに協力を求めます

息子をはじめ多くの動物の命を助けてもらったレオは、

その礼に、ヒトのアフリカ探検のガイドになり、

学術的とはいえ、ヒトのアフリカ開発の手助けをします

 

その中で、探検隊が雪山で吹雪に遭い、

レオと、ヒトであるヒゲオヤジだけが生残ります

2人とも助かることは出来ないと悟ったレオは、

自分を殺させ、肉と毛皮を与え、ヒゲオヤジを助けます

ヒゲオヤジの生還が研究の成果になったというところで、

話は終わります

 

ずっと失念していましたが、レオの死のきっかけになったのは、

疫病の流行だったということは、今の時代でもあり、驚きでした

 

戦後、華やかな文化が育った宝塚で成長し、

宝塚歌劇の大ファンだったという手塚治虫は、

何らかの形でキリスト教文化との接点もあったかもしれませんが、

最晩年にイタリアとの合作で、

遺作となった『旧約聖書物語』を作るまで、

直接のキリスト教との関わりは、あまりありません

しかし、この作品には、

Ⅰイザヤの預言を彷彿とさせる内容が、

非常に多く盛込まれているように思われます

 

手塚治虫の描くレオは、

圧倒的な力で侵略してくる存在に対抗する指導者です

しかしその一方、優しい人間にも触れ、文化をよく知っての上、

戦いに勝抜くのではなく、最初から一貫して、

闘いを止めて平和に生きることを願い、

自分と共にある動物たちに説き続けます

そしてその願いは、自分の生きている間に実現することは無く、

命を助けられた息子に託されていくことを予感させ、

話は閉じられます

 

手塚治虫はこの話の中に、

第Ⅱ次大戦後の世界で、

圧倒的な経済力,技術力で侵略を続ける先進国の力に対し、

開発途上国の人々が、民族主義で対抗するか、

あるいは国際協調で生きる中で、平和的な解決を目指すのかを、

苦悩する姿を反映させているという評価が、多くなされています

 

その葛藤の中で、果たして本当に、

平和的解決を目指す未来に希望は見えるのか、

そのためにどうすればよいのかを、

見る者に考えさせる結末を描いているように思われるのです

 

これは、Ⅰイザヤの言葉と、

深いところで大きく重なるものがあることを思わされます

前述しましたが、Ⅰイザヤは、

現実に今住んでいる世界に対しての言葉と、

未来の世代に対しての言葉、その2つの言葉を重合わせて紡ぐ預言を、

非常に多く語っている預言者です

 

Ⅰイザヤはまさに、レオのモデルの如く、

早い時期から小国の宮廷内で、どの超大国にも組みしない、

中立政策を説き、戦争を回避しようと働きます

上記の聖書箇所の直後に、その意味を込めた言葉が続きます

興味あれば、お読みください(2021.1→2024.1大幅改変)