つい最近、外せない用事ができ、

明石市の山陽電車中八木駅まで、何回も通っています

このあたりの海岸線は、

灰谷健次郎の小説『太陽の子』でも紹介されている、

沖縄本島の海岸線に似た、

隆起海岸の長く続く、独特の地形が続きます 

 

中八木駅少し西の、西八木海岸は、

「明石原人」発見場所として、今でも有名な場所です

 

「原人」という言葉は、現在は、

猿人→原人→旧人→新人という、かつての、

一方向の単純な進化様式は完全否定され、

それに伴い、原人という、学術的な定義がない上、

差別的なニュアンスを含む言葉は、

生物学では、あまり用いられなくなりました

 

しかし、

明石人という表現は、一般にはほとんど知られていないので、

地元での表記と同じく、

ここでは、明石原人と書きます

 

明石原人は、その隆起海岸の地層が崩れた、

海岸の地層から発見されました

見つけたのは、直良信夫という、独学で考古学を学んだ研究者です

後に博士号を得て早大理工学部で、

考古学・古生物学の教授になりましたが、

発見当時は、アマチュア研究者という立場です

 

 

療養で当地にいた直良研究者は、1931年、

中期更新世(180.6-12.6万年前)の砂礫の堆積から、

ヒトの仲間の大腿骨の一部(右寛骨)を発見し、

東京帝大理学部人類学教室の、松村教授に鑑定を依頼しました

これは、現在解明している、

日本列島で、捏造でない石器等が確認されている、

中-後期旧石器時代(30-1万年前)と、

重なっています

 

しかしこの時、石膏の型は作られましたが、

結論が出ないまま、標本は返却されました

もし本当なら学術的に大きな意義があるはずなのに、

きちんと解析しなかったのは不自然な話で、

おそらく、直良研究者が素人ゆえ、大したことがないと、

頭から決めつけたためでしょう

 

その時、理由が伝わっていない形で、

否定的な見解を述べた同僚に従ったという話もあります

一方、研究者の言葉として、

骨が化石化していたという言葉もあります

 

もし、この時に詳細な検討が加えられ、

報告が制作されていれば、

少なくとも更新世の化石か、

現代の遺骨が混入して誤って化石とされたかに、

ついては、

結論付けられていたでしょう

 

石膏型から作られた模型の計測から、

この寛骨が、現代人と同じ、

クロマニヨン人(新人)である可能性が、

非常に高いようです

 

猿人や旧人でないことは、

決して学術的価値が低いということでなく、

クロマニヨン人の最古の化石は、300万年前ですが、

アフリカからユーラシアに渡ったのが、7-5万年前

 

つまり、骨が本物なら、

クロマニヨン人がアジアに来たかなり早期に、

日本まで進出していた証拠になったはずです

 

明石原人の骨そのものについては、

戦争で焼失しましたが、

石膏型は残され、遅れて有名になり、

戦後の東大人類学教室が、西八木海岸で、

発掘調査をしています

 

ただしこの時、

調査隊から、事実上、

直良研究者は除外され、

結果、大金を投じての調査は、

全くの空振りに終わったそうです

 

何というか、直良研究者は、

2度にわたり、東大から冷酷な仕打ちを受け、

それがひいては、

日本の古代人類研究に、

致命的な失敗をもたらした可能性が高いのです

 

今、西八木海岸の発掘現地には、

記念碑がポツンと建っているだけです

今も昔も、東大のとんでもない権威主義が、

もし改められていれば、

どれほどの、今は失われてしまった、

貴重な研究成果が世に出ていたのだろうかと、

少しは知っている者として、

考えないではいられないのです(2023.12)