「ラグタイム」 | 世界史オタク・水原杏樹のブログ

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世界の史跡めぐりの旅行記中心のブログです。…のはずだったんですが、最近は観劇、展覧会などいろいろ。時々語学ネタも…?
現在の所海外旅行記は
2014年9月 フランス・ロワールの古城
2015年3月 旅順・大連
2015年8月 台北(宝塚観劇)
を書いています。

「ラグタイム」梅田芸術劇場で見てきました。



まず最初に登場人物が3種類のカテゴリに分けられていることが示されています。
中央には白を基調とした白人グループ、左側にカラフルな柄もの衣装の黒人グループ、右側にはグレーのグラデーションの移民グループ。

そしてそれぞれ主要人物が3人称で他人事だか回想のような調子でそれぞれの設定を歌う。
白人グループは特に周りに黒人が全くいない、セレブな人たちの模様。

これは20世紀初頭、初めて聞くシンコペーションの響き、「ラグタイム」という音楽が人々の耳に入り始めた時代。

瀟洒なお屋敷を建て、そこで快適な暮らしができるよう家の采配をするのが白人の「マザー」(安蘭けい)の役目。
ある日マザーは庭いじりをしていると、花の中に赤ちゃんが捨てられているのを見つけます。生まれて間もない、しかも黒人の赤ちゃん。そういう子供を育てるしかるべき施設がある…と言われて「私が引き取ります」と答えます。そうしたら、黒人の娘、サラ(遥海)が子供の母親だと言われて連れてこられます。マザーは彼女を屋根裏にかくまい、子供の面倒を見ます。

そうすると、コールハウス(井上芳雄)という黒人が訪ねてきます。子どもは自分の子供だ、サラに会わせてくれ、と。しかしサラは会おうとしません。何度も訪ねるうちに、マザーは彼を家に入れお茶を出します。コールハウスがピアニストだと知ると、家にあるピアノを弾いてくれるよう頼みます。
やがてサラも屋根裏部屋から降りてきてコールハウスに会います。

一方ラトビアからやって来たユダヤ人のターテ(石丸幹二)は妻を亡くし、娘と一緒にアメリカに渡ってきます。切り絵が得意で露店で売りますが、買ってくれる人はいません。移民は皆アメリカで新生活を始めようとやってきますが、たいていは夢見た暮らしにたどり着けず底辺の生活をしているのです。
そこへアナーキストのエマ・ゴールドマン(土井ケイト)が現れて、皆に社会を変えようと力強く訴えます。

コールハウスはジャズピアニストとして成功し、フォードの車を買うほどになります。しかしサラと子供を載せてドライブしている時にひどい差別的な侮辱を受け、車も壊されます。
コールハウスとサラは被害を訴え、役所に届けを出しますが、どこに行っても相手にされずたらい回しばかり。
このことで、この二人の人生はあまりにもやりきれない、つらい展開になっていきます。
2幕になると、もうどんどんやりきれなくなっていきます。
こんな結末、救いようがない…と思うのですが、そこで登場人物たちはそれでもこれからの未来に希望をつないでいこうとします。

冒頭での3人称での語りが再び帰ってきますが、それは過去を回想しているようでもあり、第3者が客観的に語っているようでもあり。つらい出来事を乗り越えて、その先を暗示しているようでもあります。

とうこちゃん(安蘭けい)のマザーは、最初は白いドレスが優雅な白人の裕福な奥様ですが、人種に対してかなりフラットな意識を持っているようで、捨てられた赤ちゃんを見て黒人なのに「引き取ります」ときっぱり言うし、夫のファーザー(川口竜也)が我が家に黒人のラグタイムが鳴り響き、黒人の親子がいる、という事態に戸惑っているのを見ても信念の強さを見せます。歌声もさすがすばらしい。

さて、黒人グループは昨今の風潮を反映してか、いかにもな黒人メイクはタブーなんだか、見た目があまり黒人らしくありません。特に井上芳雄はチラシではカールのかかった髪形だったのに、舞台ではストレートになっていました。それもあって、舞台で黒人だという設定はわかっていながらも視覚的にそう見えないというギャップにとまどいました。井上芳雄はやはり「プリンス」なので、こういう役は似合わなかったのかもしれない、と思いました。
石丸幹二は妻を亡くした痛みを抱え、娘に対して愛情を注ぎながらもアメリカで苦労する移民になり切っていたのに対し、井上芳雄は差別に苦しむ黒人ジャズピアニストになり切れていなかったように思います。これは違う人を使った方がよかったのかも…と思いました。
サラの遥海は、素晴らしい声でした。小柄で丸い顔が黒人の娘と言う設定に違和感を感じませんでした。

実在の奇術師、ハリー・フーディーニは日本ではあまり知られていませんが、手錠の脱出でアメリカで大人気だった人です。フーディーニもまたハンガリー移民でした。これを演じたのが舘形比呂一。久しぶりに見ました。

さて、マザーを見ていて思ったんですが、こういうセレブな人は、差別されたり底辺で貧困にあえいでいる人に遭遇しなければ、そういう人たちに一生かかわることなく自分の恵まれた環境の中で生きて行けたかもしれません。でもそういう人たちに出会ったとき、ことさら助けてあげようといった慈善的態度を見せることなく自然に面倒を見て、手を差し伸べることができるってすばらしいことだなーと。
恵まれた生まれ・育ちの人を見ると、庶民としてはうらやましいな、あんな家に生まれたかったな、とか成功してそこへ登って行けたらな、とか思うものですが、そうなったとして差別されたり貧困に苦しむ人たちを見ないで生きていっていいものでしょうか。自分の知らない世界は見ないで知らないままで生きていく、でいいんでしょうか。たとえ裕福な生まれであっても、成功者として登りつめたとしても、差別や貧困のある社会がある、ということを知っておく必要はあると思うのです。
たとえお金持ちじゃなくても、世界にはまだまだ差別はあるし、貧困はありますし、社会に対して問題意識は持っておきたいものです。ただ、それを知っても自分では何もできない、どうしようもできないこととがたくさんあります。多くの人は、自分が何もできないから、知ることすらやめてしまいます。自分の無力さを知るのはつらいです。でもまず知ろうとすること。そこからどうすればいいのか、答えは出なくても、向き合う気持ちは持っておくこと。社会はどうしようもないことだらけで、自分の力では何も変えられない、できないことだらけです。

「ラグタイム」はそこを突いて訴えてくるような内容ですが、見終わった後つらい感じはしませんでした。ただ悲劇に終わらせるだけでなく、表面だけの希望を訴えるのでもなく、皆が一人一人将来に向かって進んでいくような終わり方だったからでしょうか。そこがまたリアリティを感じた、ということもあるかもしれません。ひどい差別を見て「世界はこのままではいけない」という気持ちが湧き上がって来る…そういったメッセージが特に訴えかけるのではなく自然に感じられるようになっています。
それを感じて深い感動と希望をもらいました。