いもづるで「東方見聞録」(2) | 世界史オタク・水原杏樹のブログ

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世界の史跡めぐりの旅行記中心のブログです。…のはずですが、最近は観劇、展覧会などいろいろ。時々語学ネタも…?
現在の所海外旅行記は
2014年9月 フランス・ロワールの古城
2015年3月 旅順・大連
2015年8月 台北(宝塚観劇)
を書いています。

さて、元の国内には公道が整備され、宿駅が設けられて宿泊施設や替え馬が用意されていることが書かれています。
訪れた街をたどると、元の時代の公道を通っていることがうかがわれます。公道の道筋は漢文文献で前後の時代とも照らし合わせて復元することができます。宿駅ごとに記述があり、そこからどの方向へどれだけ進むとどこへ行く…という記述を検証すると、マルコがたどった道筋がかなりわかります。なので、怪しいつづりでも地名の見当をつけることができます。怪しすぎて、異論が出ることもあります。

問題は、先に述べたように何種類かの写本があるので、つづりの異動がかなりあることです。なにしろ写本、印刷のない時代の手書きですからね。全く未知の世界の見たことも聞いたこともない固有名詞は、書き写すたびに伝言ゲームのようにつづりが変わっていくんでしょうね…。この本の注釈では、いちいち写本ごとのつづりの違いが示され、地名の検証をしています。ジパングでもChipangu, Cipngu, Sypangu, Cipingu, Zipanguというつづりがあります。
元寇は2回ありましたが、マルコが滞在中に2回目の弘安の役があり、その経緯も詳しく書かれています。

で、どうしてマルコはジパングのことを黄金の国と書いたのか。もちろん行ったわけではなく聞いた話ですが、どうしてそうなったのか。
よく言われるのが、日本の砂金が遣唐使の時代からもたらされていたこと。交易品の中に日本の特産として金蒔絵が含まれていたことなど。それで中国では日本は黄金が豊富だというイメージが形成されたのだろうということ。でもそれだけで、道に黄金が敷かれているとか、宮殿が金でできてる、などに飛躍するものでしょうか。「金閣寺を見たからだ」などとも言われますが、一体誰が見たんでしょうか。

私が思うに、単に中国側のイメージだけではなく、日本人が献上品を持って中国に来た時に吹いてた、というのもあるんじゃなかろうか。「わが国ではこの通り金がふんだんに採れます。道には黄金が敷かれ、宮殿は純金ずくめです」…なんて。だって、大陸から日本へ渡って帰ってきた、なんて人がいたという話はほとんど聞きません。往復していたのは日本人だけ…だと思う。
あと、黄金だけでなく真珠もたくさん採れる、とちゃんと書いてあります。

さて、地名ですが。
「タイユアンフ」というのは「太原府」だろうなと見当が付きます。でも「シンドゥフ」が「成都府」だなんてわかりません。
「ヤンジュー」は揚州。すぐわかる。「チンギアンフ」は鎮江府…わからない!「スージュー」は蘇州。これも言われたらわかる。
揚州、鎮江、蘇州…私が以前江蘇省の旅行に行った時に訪れた場所ではありませんか。マルコと同じ街を旅していたなんてうれしい。

また、マルコが訪れた時期は元はまだ中国の北半分を征服していた時で、南宋が存在していました。マルコが滞在中に南宋が滅ぼされフビライの支配下にはいります。マルコは南宋の都だった杭州も訪れており、街の様子が詳しく描写され、杭州の有名な絶景ポイント、西湖のことも書いています。

そのほかたくさんの町のことが書かれていますが、そこに書かれている産物のことや風習など、訳注で中国文献の記述で裏付けを取り、その記述がどの程度正しいかも検証しています。
地図もありますし、読んでたら元代の中国を旅した気分になれます。

さて、マルコは元に17年滞在したのち、コカチン姫をイル・カン国に送り届ける役目を仰せつかります。今度は南海航路での旅になります。
マルコは17年間中国領内をかなり広く行き来していたようですが、ニコロとマテオはどうしていたんだろう。やっぱり商売をしていたんだろうか。時にはマルコに同道していたらしいんですが。
マルコはフビライのために情報収集をしていたらしいんですが、一応表向きは商人として旅をしていたようですし、表向きじゃなくて実際に商売もしていたのかもしれません。

南海航路の道筋もおもしろいですね。チャンパ国とかジャヴァとかビンタン島とかサマトラ王国とか。漢人の商人たちはこのあたりまで交易に来ていたようです。
セイラン島は宝石を産出することで有名。そこからすぐインドになります。インドは主に沿海をずっとたどっていて、いろいろな街がたくさん描写されています。
インド洋を越えてアフリカ大陸に属するエチオピアやザンジバルのことも出てきますが、このあたりは伝聞で書いているらしく、かなり怪しい。
そうしてホルムズに上陸したところで旅行記は終了。

しかしそのあとモンゴル帝国の事情について記載した章が続きます。モンゴル帝国はチンギス・カーンのあと4つのカン国に分裂しますが、それぞれいろいろよく紛争を起こしました。マルコがフビライのもとに滞在していた時にもいろいろ聞いていたのでしょう。それぞれのカン国間の戦いの様子が書かれています。

あらためて読んでみると、すごいです。「東方見聞録」。これだけ広い地域に渡ってそれぞれの土地のことを詳しく書いたものはまさしく空前絶後です。マルコって記録魔だったのかも。