伍連徳~伝染病防止に賭けた人生~(1) | 世界史オタク・水原杏樹のブログ

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2015年3月 旅順・大連
2015年8月 台北(宝塚観劇)
を書いています。

これまで小説とドラマで1910年のハルビンのペストのことを紹介してきました。しかし、小説もドラマもフィクションです。もともとはハルビンに関する本を読んだときにこのペストのことが書いてあって、それで知ったのです。なのでもう一度その本を引っ張り出してきて、ペストに関する部分を読んでみました。そうしたら、その先までずっと伍連徳の人生を紹介した内容になっていました。
そこでこの本に書いてあることを訳してみようかと思ったのですが、日本で日本語に訳したものをネットに載せても著者に影響はないかとは思うものの、無断で本に書いてある文章をそのまま載せていいものかと思ったことと、長くて大変なので要約して書いてみます。

まず1910年の夏、西シベリアからアムール川(黒竜江)河口のニコラエフスクでペストが発生しました。そこは人口も少なく医療的措置で蔓延を防ぐことができました。10月初めになると、外バイカルからアムール川流域ではタルバガン猟をしている中国人がいて、帰郷を始めました。タルバガンはシベリアからモンゴルにかけて生息するげっ歯類です。タルバガンの皮は大変質が良く高値で売れるのです。その後もロシアで中国人の工員が一夜に7人死亡したことがあり、衣服や家が焼かれて伝播を防ぎました。

さらに10月下旬には満州里の旅館で主人と客が相次いで亡くなりました。11月にはハルビンに達し、黒竜江省各地に広がりました。特に病人が多かったのはハルビンの傅家甸(フージャデン)です。現在は道外区と言われる地域です。

ハルビンはロシアのシベリア鉄道に続く東清鉄道と連携する重要な都市で、ロシア人が鉄道周辺地域を支配していました。さらに中国人も多数入ってきました。中国人の居留地が傅家甸です。清朝ではここに行政府を作る必要を感じ、浜江庁道台府を作りました。道台府の建物は近年になって復元されています。この傅家甸で毎日のように死者が出る事態になりました。

ハルビンは鉄道の要衝で、シベリア鉄道を通じてパリまでも通じていました。貿易の拠点となってヨーロッパ人もたくさん入ってくるようになり、20世紀には日本人もたくさん入っていました。ハルビンでの疫病の発生は世界に伝わりました。
特に日本とロシアは日露戦争以来満州地域の覇権を争っており、もし清朝政府が疫病を抑制できなければ武力行使をも視野に入れて都市封鎖をするつもりでいました。そこで清朝政府は施肇基という人物に疫病防止の任務を任せることにしました。施肇基はアメリカのコーネル大学で哲学博士を取得し、帰国後は英語とフランス語を駆使して外交活動を行っていました。ハルビンの道台府で道員を務め、ロシアと日本の折衝にもあたっていました。任期中は清廉な人物として知られていました。防疫を任命されたときは北京外務部の外交官を務めていました。

ハルビンの防疫を任された施肇基が思い浮かべたのが伍連徳です。
伍連徳は当時イギリス領だったマレー半島に属するペナン島の生まれです。ペナン島には19世紀ごろから多数の中国人が移住していました。特に多かったのが福建と広東からで、それぞれのコミュニティが作られていました。伍連徳はイギリスのパスポートを持っており、ケンブリッジ大学で医学博士を取得しました。さらにドイツのハレ大学とフランスのパスツール研究所で微生物学を研究しました。英語、フランス語、ドイツ語に堪能でした。しかし福建語と広東語は話せますが、北京語が話せませんでした。29歳の時に北京に来て、天津陸軍軍医学堂の教師に推薦されました。そのため教師について北京語を勉強しましたが、あまり流暢ではなかったそうです。

施肇基は外交視察の際にペナン島を訪れて伍連徳と会ったことがありました。早速伍連徳を北京に呼び寄せ(天津と北京はすぐ近く)、ハルビンで疫病が発生し、ただちに専門家の派遣が必要なことを話しました。そして日本とロシアが防疫を理由にハルビンの占領をもくろんでいること、この任務には疫病を抑えるだけでなくその領土的野心をも防ぐ役割があることを伝えました。
伍連徳はこの任務を承諾し、天津陸軍学堂の学生林家瑞を選び、二人で医療機器を取り揃えて直ちにハルビンへ出発しました。