備忘録として記録。

去年から、グラグラと、
忘れていたはずのものを
もういらんと思っていたものを思い起こさせられて揺さぶられるような何かが続いている。




その日は、日帰り樟葉の日。

ある特別な環境で特別な音を聴くことができる日。



その場に入った瞬間、落ち着く空間と、

目の前の樹木と、


あぁ、森だなぁと思った。



普段は、何か他の事をやりながら背景として耳にする音楽がほとんどな中、それらとは全く違い、


音を「味わう」

音を「感じる」時間だった。




初めは、怖さがやってきた。


時々やってくる。


うれしい怖さというか、求めているのに怖い、

気付いてしまうという怖さみたいなもの。



途中泣けてきた。


ある感覚を追いかけていた。



確かに覚えのある感覚がある。

そこにまた辿り着きたい自分がいる。


その音を聴きながら、

それを一生懸命掴もうとしている自分がいる。


その感覚ではない、

別物を掴んでいる感覚がやってくる。

そっちじゃない、そっちじゃない。


あっちに行きたいのに。


もうすぐ掴めるのに掴めない。


もう少しなのに。。。



そこで、音が終わった。

また別の音に。







その翌々日。

都内での勉強会。

今年2024年のテーマについて。


前々から予定されていたものではない日だった。

でも何だか、出ないとなと思った。


そしてやってくる。

忘れてた感覚。記憶。



人と
自然が
豊かに共存していく社会


去年の7月にも同じようなことがあった。

無力さに絶望して、何もできないやと、
志を手放したとき。
それは、「社会」で「社会人」として生きていくには必要だったし、
それで得たもの学んだもの、たくさんあった。

でもやってくる。

樹木を伐採して始まる土地開発のニュースに、
人間って何で愚かなんだろうと
生意気な子供心。

大木に触れるために庭園通いしていた受験予備校時代の休憩時間。
神秘的にキラキラしていた梅園の通路。


進学して、
環境学を志して、
先生にも活動するグループにも恵まれて、
何が問題なのかも、方法論も、
学べる環境にあった。
どれもこれも中途半端だったし、何も極められなかったけれど、
何かが響いて心に残る一方で、
何かが定まらなかった。

同じ教室で学んでいた他国の学生からは、
環境政策は経済政策の二の次だと論破されて、
ショックだった。

自分だけ、考えが甘いような気がした。




今年の干支。


「甲辰」


樹木的生き方について考える時間だった。


特に、植物に親しんでいたわけでも、

夢中になっていたわけでもなかった。

そういうものを学んだ時期もあったけれど、

無我夢中の境地には至れなかった。

(追いかけ方が甘かった点ももちろんあり)


折に触れて、

転機や帰路に「樹木」の存在が浮かぶ。



真理を知りたいと思う心は

どこかにその記憶があると思うのだけれど


人が、樹木と樹木のように、

誰かと「和」することを忘れてしまった歴史の中で

でも、何度も何度もそれらを思い出そうとする過程で、人と出会い、ご縁を結ぶ。



あの、音楽を聴いた日のよう。


掴みたくて掴めない。


もうすぐなのに、まだ掴めない。




この先も、きっと、記憶に残る日、

になったように

思う。