『愛する』と『愛される』について


素敵な気づきがあったと思ったら、


OSHOのこんな言葉が届けられた。


私の気付きは‘ただの始まり’にすぎないのか。




.☆.。.:*・゚


私が「愛せ」と言うと、 

みんなは自分が愛さなければいけないのだ

と思い込む。 


 しかし、それはただの始まりにすぎない。 

 クライマックスはあなたが受け取る時、 

そして他の人達が

自分を愛することを許す時に 

初めてやって来る。 


そうしたら、あなたは完全に無防備だ。 

そうしたら、あなたは自分がどこに向かっているのか、自分に何が起こっているのか分からない。 


 だから、あなたはそれを自分で意識して

やらなければならないだろう。 

さもなければ、そんなことは出来ないに違いない。 


あなたは意識して、 

よく目を見張っていなければならない。 

そして自分がブロックしていると

感じるような時、 

誰かが与えてくれるのに 

自分が固く硬直して、 

それを中に入らせないと 

感じるような時には、 

リラックスしなさい。 


 「イエス」と言うのだ。 

 「イエス」をあなたのマントラにするといい。


奥深いところで何か硬直したり、

固くなったり、

外から浸み込んで来るものを 

許そうとしないというのが分かったら 

「イエス」と言ってリラックスしてごらん。


 ・・・愛というのは実に途方もない現象、

実に生命力のあるエネルギーなので、 

人々は恐れてしまう。 


それはつむじ風だ。 

それはあなたを連れ去ってしまいかねない

・・・。 


誰にも分からない。 

それがあなたをどこに着地させるかは 

予測不能だ。 

それはあまりにもワイルドで、 

確実なことはひとつしかない。 


もしそれを許したら、 

あなたは死を通過しなければならない 

ということだ。 


 何かがあなたの中から生まれ出ることだろう。が、あなたは「その人」を知らない。 


禅では、その人のことを「無位の真人」

と呼ぶ。無名だ。 

バウル(インドの吟遊詩人)達は、 

その人のことを「本質的な人間」と言う。 


「アダール・マヌシュ」(adhar manush)

・・・。 


 あなたは引き下がって、 

その「無位の真人」に 

席を譲らなくてはならない。 


なぜならば、あらゆる防御がなくなった時、 

あなたもいなくなる。 


そうした時、そこに何かはある。 

が、あなたはそれが自分だとは言えない。 

それはあまりに広大だ。 

あなたはそれにどんな名前も、 

どんな形も着せられない。 


 その時こそ「無位の真人」が生まれている。

それが本質的人間だ。 

それはあなたにも、私にも、 

他の誰にも何の関係もない。 


それは我々の本質的人間なのだ・・・ 

名もなく、形もなく、何の形容詞もつかない。だからこそ、禅の人達はそれを

「無位」と言うのだ。 


だが、それこそあなたの本性なのだ。



 Osho - Dance Your Way To God