子どもの頃の私も。

大人になった私も。

プレゼントをもらうのが大好きです。

 

もらうのも、送るのも大好き。

サプライズプレゼントするとか、大好物です。

 

とはいえ、自分の欲しくないもの、

がっかりするものをもらったときは、

ええ、これ、いらねーって、素直に顔にでちゃうけど。

お花だったら、だいたいオッケーだったりする。

スキじゃないお花もあるけど、花束として調和がとれているなら良いかなと。
 

わたしから送るプレゼントも、サプライズだったり。

さりげなく、その人に必要そうなものを用意してみたりするけど。

お花は、だいたい喜ばれる。

野の花でも、お店で買ってきたものでも、相手の反応はよいのかなって思う。

 

誕生日や記念日のプレゼントは、めっちゃ期待してしまう。

思いがけない人から、思いがけないプレゼントをもらうなんてことがあったら、夢のようで最高!ってなったりもする。

 

現金をもらえたりしないかなあって、浅はかなことを考えたりもする(笑)

宝くじが当たったらいいなってことも考える。

 

プレゼントをもらえるってことは、その行為のなかに、それをしようって思うときに

私のことを思ってくれている、考えてくれている、喜ばそうとしているという心の動きが

相手の中にあるから。そのことを感じるのがうれしくて、分かりやすい愛情表現でもあって。

物をもらえるという物質的な満足感だけでなく、相手が私のことを思ってくれているという内面の部分で、

心がうれしくなるんだよね。

愛されていることを実感できて、素直にうれしかったんだ。
 

物質的な欲望も、精神的に満たされる欲望も盛りだくさんにあって。

できたら、ふと、予想だにしない展開でもらえないかしら、なんてことを思いっきり、少女漫画の世界のように妄想する。

妄想するだけ、時間の無駄な使い方をしているのかもしれないのだけど。

あながち、ドラマのみすぎだろってくらいに、夢見がちだ(笑)

 

パートナーや恋人からのプレゼントは、めちゃめちゃ、嬉しいから。

期待しすぎてしまって。期待と依存が大きすぎちゃって。

相手が私を思う気持ちをおなざりにしてしまって、

物質的に、自分の欲しいものでなかったら

もらったときは、ほんとうに、がっかりしちゃうのだ。

相手が私のことを考えて選んで送ってくれたのに、意に反するものだと

その気持ちをくみとれなくなってしまう。
 

相手を悲しませて、不快な思いをさせてしまうこともあるから、

大人になってからは、どれだけ分かり合えていても、親しい友人や、身内や家族からのプレゼントは、

大きく期待しないようにしてきた。

心、気持ちだけは受け取っても、自分の好きじゃないものだったら、受け取れないのだ。。。

受け取っても、目が喜んでないから、相手にすぐにばれてしまう。

 

物質的に、私が思う、喜ぶプレゼントもらえないことも、あるから。

今では、プレゼントは、自分で自分に買うことにしてる。

誕生日でも、クリマスでも、記念日でも、自分から自分へのご褒美に、プレゼントをあげて

自分を満たしてあげたほうが、物質的にも精神的にも、喜ぶんだなってことが分かった。

 

これが欲しい!って具体的に、リクエストしても、もらえないことも多いしね。

一緒に選べばいいじゃん、ってなるけど。一緒に選ぶのは、なんだか、つまらないと思ってしまう。

サプライズがすきなひとだからね(笑)
 

それだったら、自分で自分好みのものを買ってあげたほうが良い。

 

(プレゼントじゃなくても、自分の生活の中で、身にまとうもの、家に一緒にいる必要なものは

自分が気に入ったもの、好きなものを、選んできたんだよね。

それって、当たり前のことだよな。

気に入ったものと一緒に、私がすきなものと一緒に、生活の中で一緒にすごすって。)

 

それでも、それでもね。

もしかしたら、誰かが、こっそりと、わたしに

わたしが気にいる、ジャストミートなプレゼントをくれるんじゃないかって

淡い期待と妄想を抱いてしまう。

 

妄想欲が、すごすぎる。。。現実みろよって、思う位に。

きれいに言うと、想像力だけど。ただの、欲望の妄想なんだ。

 

あれが欲しいという物欲とはべつに。

プレゼントという愛情表現を求めているんだよね。

プレゼントという、相手を(私を)思いやってくれる、気持ちを測りたいのだ。

 

自分を愛してくれている、自分のこと大事に思ってくれている。

自分を見守ってくれている、という、相手からの愛情を

プレゼントという形で、もので、求めている自分がいる。

満たそうとしている自分がいる。

 

なんで、こういう自分がいるんだろうって

思い返していくとね。

 

親からもらいたかった、愛情だったんじゃないかなあって。

気づいたんだよね。

 

私は、3人兄弟の真ん中の次女で。

手のかからない子だった。

長女の、お姉ちゃんと親のやり取りを見て、学び。

長男の、弟の甘やかされっぷりをみて、学び。

をしていたら、

いつの間にか、3兄弟のなかでは、お手伝いができる、優等生で、親の聞き分けのいい、よいこになっていた。

金銭的にも、生活面でも、手がかからない、親にも迷惑かけないようにしてた。

 

うまくやりくりできてる子になってた。

そうなると、ほったらかしの放置プレイだよね。親も、ありがたいよね。

手のかからない子、お金がかからない子、面倒がない子っていうのを

自分で、作り上げてしまっていたのだ。

そのほうが、親が喜ぶから。親の負担を少しでも軽くしたかった。

子どもの私ができる、親への愛情表現が、いい子でいて、手がかからない子でいること。

家のお手伝いができて、家のことを少しでも支えることができる子になることが

大好きな母にむけた、愛情だった。
 

親として、初めてのわが子で、育児も保育園入園とか、検査とか、手続きとか、すべてが、初めてづくしで、手のかかる長女

跡取り息子として、やっと男子が生まれて、大事に、大事に、男尊女卑なくらいに、長男として育った長男。

女の子とは違って、男のコの子育ても初めてだから、手がかかってたんだと思う。

 

そんな、はざまにいた私は、小学生くらいから、自分でなんとかする、親を頼らずに、親に迷惑かけずに

自分でできるようになることが、目標(親が喜ぶことをしたいという目標)になってたんだと思う。

 

それでも、内心は、親にかまってほしくて。親からの愛情が欲しくて。

愛情表現を、物質的なもので、えたくて、満たされたかったんだと思う。

 

子どものころの。

お誕生日プレゼントや、クリスマスプレゼントのとき。

具体的に何をもらったのか?あまり、詳しく覚えていないのだけど。

弟のプレゼントのほうが、豪華でお金がかかっていて。

(レーシングマシーンとか、戦隊ものとか)

私や姉へのプレゼントは、弟のと比べると、大したものではなくって。

(何をもらったのかすら、覚えてない。。。)

 

なんだか、不公平だなっていう記憶だけが残ってる。

年上とか、年齢順とかでもなく。

子どもたち一人ひとりへの愛情、気持ちは、同じだったかもしれないのだけど。

物質的な、もので比べてしまったとき(もの=プレゼントの値段、お金)

弟と、の差を強く感じてしまったんだ。

 

激しく、虐待的な、攻撃的な、差別扱いをされてきたわけではないのだよね。

ただ、じんわりと、ささやかなところで、地味に、親がむける、愛情の差を、

ものやお金という目に見えるものから感じてしまって。

 

兄弟間、男女間での、親の愛情に物質的にも、精神的にも、「差」を感じてしまったんだよね。

 

そこから、私は愛されてない。弟と比べると、愛されてない。

姉と比べると、気にかけてもらってない。

っていうところに、繋がってしまった。

ヒトと比べてしまうこと、心が見える化した物質的なところで、見てしまうようになった。

 

親としては、差別をした気持ちはほとんど実感がないのだと思う。

無意識の行動なんだとおもう。
兄弟で、男女で、公平にしてなかったことに、意識したことがないんだろうなって思う。

親に、悪気はなかった。だけど、子どもの頃の私は、それをずっと根に持つようになった。

この子供のころの不満や、気持ちが、大人になってからも

ずっと、ずっと続いていて。

 

その求めていく気持ちが向かっていく相手を、親から、親しい友人や、恋人や、パートナーに変わっていて。

愛情表現の1つとして。

プレゼントをもらえることで、自分の中の、足りなかったところへ

満たされなかったところへ、注ぎ込もうとしていた。

 

今、こうして、過去の自分から今の自分について、自分分析してるから、分かってきたことだけど。

ここに、気づけなかったときは、ただただ、ほしいほしいと渇望していて、

もらっても、もらっても、自分を満たすことはできなかったんだと思う。

もっと、ほしい、もっといいものを、と、相手に要求して、欲望が膨らんでいってたと思う。
他力本願というか、相手に求めてばかりいた。

自分で満たすことをしようとしなかった。

 

じゃあ、今。

今、心のこもったプレゼントを、お金をかけたプレゼントを、

親からもらえたら、満たされるのか?というと、どうなんだろう?

 

大人になってしまった私は、ひねくれまくっているから。

素直に喜べるのかな?満たされるのかな?

もう、いい大人だし、いいよ。大人になったから、色々わかってるよ。

子どもの頃に、そうしてほしかったよ。っていって、

素直に喜んで受け取れず、さらにひねくれてしまいそうだ。。。

 

自分で自分に贈るってことができるようになったから、もういいよ。

でも、お金は欲しいよ。お金くれるなら頂戴ねって、調子のいいことを、図々しいこと考えてる自分がいる。
 

他者に、周囲にもとめても、望むものを得られない、満たされないんだと

分かってきてからは、あきらめがついてきて。

周りに期待しても無駄だ、ってわかるようになって。

 

今は、自分で自分に、好きなだけ、プレゼントを贈るようにしてる。

物質的な満足を得たいときもあるし、精神的に満たされたいときもある。

自分を愛するという、プレゼントを常に送り続けているんだ。

私が、私の最愛のパートナーで、理解者で、愛しているんだ。

 

私のご機嫌とりができるのは、自分自身だけなんだよな。

そして、大きな、この地球の星にかこまれて生かされている、この自然界は

平等に公平に、プレゼントをくれているんだな。

太陽や月、宙、見せてくれる景色も、出会える自然現象も、生かされていることも、

ギフトなんだ。プレゼントなんだよね。

 

ってことに、これまでの色んな経験から(事故だったり災害だったり、他者とのトラブルだったり)

自ずと気づけることができた。

 

自分を愛してあげられるのは、自分自身なんだ。

愛を求めてばかりいた、自分。

自分を愛してほしいと、外に訴えて、向かっていた自分。

気づけた今でも、やっぱり、外に向かっちゃうときはあるよ。

時には、だれかに甘えたい、愛されたい、私を知ってほしい、見ていてほしいって。

そんな自分も、そうだよな、そういう時もあるよなあって

受け入れながら。自分で自分のご機嫌をとっていくし。

この地球という星が見せてくれる、与えてくれるものに

みたされて、癒されて、ご機嫌をとってもらって、行くのかなあとも思う。
 

今の時点では、ここまで。

またここから、変わっていくかもしれないのだけど。

今の私の、着地点。

 

心の中で、思っていたこと、感じていたことが

ようやく、文章化することができた。

表にだしてみようと、ブログに書いてみようって思えた。

 

私の中の、心の整理。自分ってこういうやつだったんだなあっていうのを

心や頭の中から、言葉にして、あらわに出したくなった。


自分のための、ブログセラピーです。
誰に向かっていうわけでもなく。
自分のために。

これまでの自分を、書き留めておきたくて。

ブログに書いてみようって思えてきたんだ。

 

私のブログセラピーは、まだまだ続く。よ。