2024年 新暦では年が明けました。

旧暦では、霜月なので、旧正月での年明けはもう少し先になりますね。

 

元旦の地震のときは、岐阜→滋賀→福井→京都→兵庫→鳥取と

日本海側を通って帰る途中でした。

福井の敦賀を通過して、さらに西に向かっているときに地震と遭遇しました。

 

今回の地震で、感じたことや分かったこと、書くと長くなっちゃうので。

先に、まとめてみます

 

①山間部の高速道路では、震度5の地震が起きてても走行中だと揺れに気づけなかった!

PAとかで停車してたら気づけたし、平地の街中の高速だったら周囲の看板や電線などで気づけたかも

なにもない道路だと気づけなかった

 

②津波は太平洋側でのことで、太平洋寄りが海が狭い日本海側は、津波が来ないと、勝手に思っていた。

日本海側でも、津波は起きるんだ。自分の認識が、とっても甘かった!

 

③引っ越して1年たったけど。自分の住む地域の防災情報や、ハザードマップをキチンと確認で来てなかった。

今一度、自分たちが住んでいる地域のハザードマップを確認して、いつどこで起きるかわからない

自然災害に備えておく

 

④旅行中に、災害に遭遇してしまった場合。地の利もわからない、知り合いもいない、頼れるものがない状況。

旅行中に被災した場合のリスクマネジメント、防災対策も考えていきたい(お仕事でも、遠征ツアーをしているので、出先で被災した場合の対応を再確認していく)

 

⑤地球という生きたマグマを持つ、惑星に生きている以上、いつどこで起きるかわからない

予測不能な自然災害(予知する技術はあっても限界がある)は、当たり前に起きるのだ。

その自然の脅威のなかで、私たちは生かされているってことを、覚悟して生きていく。

 

今回の、大地震から、気づいたこと、学びを自分自身にも、ちゃんと生かしていくことはたくさんあって。

大事です。

もちろん。これからはじまっていく、被災地への寄付や支援などにも、できる範囲でできることを考えていくけど。

まずは。自分たちの住んでいる地域の出の、ハザードマップ、津波が起きたときにどこへ避難するのか?を

もう1度、確認して、防災意識を持っていくことからだなと、感じ思った元旦の夜でした。

 

ここからは、長くなるので。読みたい人は読んでね。

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12月末から、車を使って、地元の岐阜に、初めて帰省してみました。

山陰海岸ジオトレイルの下見を兼ねて、日本海側をめぐって、地元の岐阜県に帰省する旅をしていました。

兵庫県の豊岡より先の、久美ヶ浜、夕日が浦、天橋立をめぐり、舞鶴、敦賀を高速で通過して、北陸道で滋賀県へ。

そして、地元の岐阜県の養老町に帰省する旅でした。

元旦には、鳥取への移動を開始。

 

元旦の午後2時過ぎに養老を出発して、渋滞を避けて、往路と同じルートで鳥取に戻ることにしました。

カーナビでは、滋賀、京都、大阪周りの名神高速で行ったほうが早いのですが、年末年始の道路渋滞をさけて、

往復共に、日本海側で走ることにしました。

 

敦賀を抜けて、北陸道から舞鶴若狭道にはいり、小浜方面へ高速道路を走行中に、緊急地震速報が

携帯から鳴り響きました。

16時12分でした。え?そうなの!地震?

と、半信半疑でした。

 

山間部の高速道路を走行している最中に、震度5強の地震に遭遇していたのですが。

高速で走行している、車内では、地震を感じることができなかったです。

ネット情報では、16時6分の震度5の石川県の地震の情報しかなかったので。

てっきり、緊急地震速報は、この地震のことなのか?と思っていました。

緊急地震速報が届いていた時には、すでに、福井県内も震度5の揺れがおきていたのに

まったく気づくことがなく、高速道路を走行していました。

 

これが、平地の街中の高速道路だったら電線が揺れていたり、周りの家屋や看板、見える景色の揺れで

地震に気づけたのかもしてません。

舞鶴若狭道は、山間部を走っていて、しかも、長いトンネルも多く、(敦賀から舞鶴までは14個あります)

周りの景色から地震が起きていることに、気づけなかったです。
 

その後、岐阜の実家から、大丈夫か?と安否を確認する電話が入り。

その後の、ネットニュースで、16時10分にも震度7の地震が起きたことをしりました。

最寄りのPAに停車し、ネットで情報収集をしてみたけど。震度7と津波に警戒する情報のみで。

なかなか詳細が分からず。。。。舞鶴若狭高速道路も、緊急停止などの情報もなく。

鳥取への帰路のため、震源地から離れていく方向でもあったのと。

山間部を走っているため、沿岸部にはいなかったこともあり、そのまま、鳥取への走行を続けました。

 

テレビなどでの画像や映像を一切みれず。

ヤフーの災害情報をみながら、西へと向かいました。

途中、豊岡のあたりで、津波の情報を確認し、豊岡の沿岸部も津波警報の赤色になっていたのですが。

その時も、内陸部を走っていたので、そのまま走行。

豊岡市内は、津波への警戒もなく、店舗や人の流れも通常通りの様子でした。

 

帰路の途中、防災関連で長年、お仕事をされていた、お客様からメールを頂き

アドバイスや情報を頂けたことで、さらに、この地震がただ事ではない、かなり、やばい状況であることを

実感しました。

 

このまま、とどまったほうが良いのか?鳥取に向かっていったらいいのか、

めっちゃ悩みました。

海側を走らないというルート選択をしながら、20時過ぎには、鳥取に戻ることができました。

鳥取市内の沿岸部も、避難勧告が出されていました。

 

おうちに帰って、テレビをつけて、初めて、映像で地震の状況をみることができて。

震度7という地震の発生を、被害の状況を実感できました。

 

そして、高速道路を走行していたときにも、震度5の揺れが起きていたはずなのに

ぜんぜん、地震の揺れにきづけないものなんだと。わかりました。

今回のように、山間部でなにもない高速道路や、トンネルの中だと、車を走行していたら、気づくことが難しいことが

分かり、後になって、恐れおののくというか、ひやりはっとしました。

 

帰路も、福井のどこか、滋賀の余呉湖とか、寄り道観光できるかなあとか、考えていたのですが

どこにも立ち寄らず、そのまま西へと帰路に向かっていたのが幸いでした。

そして、出発を1時間でも遅らせていたら。。。。

日本海を見ながら帰ろうといって、下道で、海沿いを走行してたら。。。。

自分たちの状況も、大きく異なっていたのだろうなと思います。

 

石川県は、輪島もと能登半島も、一大観光地です。

自分たちのように、観光しながら帰省しているヒト。年末年始の旅を、石川に訪れていた人も多かったと思います。

旅行中に、被災した場合、どこに避難していいのか、地の利もわからない、知っているヒト、頼れる人もいない。

旅の最中で被災した場合、どうしたらいいのだろうと、色々と考えました。

 

私のお仕事も、遠征ツアーが多く、お客様と一緒に旅をしています。

旅先で、お客様と一緒に地震や自然災害に遭遇した場合の、リスクマネジメントや情報収集の仕方。

旅先で被災することも備えて、現地の災害対策情報を知ることも大切だなあと、改めて、実感しました。

 

そして、私自身が日本海側では津波なんて起きないだろうって、甘い認識をしていたことを

思い知らされました。

津波というのは、海が大きくて広い、太平洋側だけのことだと、思っていました。

日本海側では、津波なんて起きないのだろうなと、勝手に思い込んでいました。

元旦の日の夜、22時すぎには、鳥取県西部の境港で、60㎝の津波が起きていました。

石川から、あんなに離れているのに、波があがっていることに、驚きました。

 

帰路の道中も、津波警報や注意報といっても、日本海側だし、そんなに大したことにならないだろうという、意識でした。

自分の認識の甘さにぞっとしました。

 

今、住んでいる、湯梨浜の自宅も、海に近いエリアです。1キロ弱離れてはいますが、

津波に対する警戒、高台避難の場所など、再確認する必要性をめちゃくちゃ感じました。

 

自然災害は、今の科学技術のレベルで、ある程度予想できるものもあったりもしますが。

自然の脅威って、人間の技術を超えたところにもあります。

人間では、かなわないものです。地球という惑星の中では、人間の力はなにもなす術がないのだと

改めて、認識しました。

 

できることは、できうる限りでの防災に対する意識と対策と、

その後の二次災害を防ぐこと、そして、人と人のつながり、支援だけなんだと。

起きうるものを停めることはできない、阻止することもできない。

できるだけ、被害を最小限にすることしかできない。

 

これから、始まる支援や寄付。

これからもっと、寒くなっていく、厳冬期に入っていく被災地への温かい支援を

協力していきます。

 

私ができることは、小さいけれども

今回、鳥取ではなく、独特な環境で、地震と遭遇したことで、

自分のなかの認識や、防災に対する意識も、塗りなおすことができました。

自分の中の記憶と記録も兼ねて、自警もかねて、ながくなっちゃったけど。

ブログで残しておくことにしました。

 

ここまで、読んでくださり、ありがとうございました。

2024年も、この地球と共に。

生かされていく覚悟で、楽しいことも、つらいことも、受け入れて生きていきます。

 

 

 

私たちはこの星で、なにがあっても、何としてでも、生きていくのだと

感じた、2024年の始まりでした。

月並みな言葉になってしまいますが。

被災された方々には、心からお見舞い申し上げます。

できることを、できる支援をしていきます!