今朝気づきがあったのでシェアします。

 

先日の聖霊の教室「掲示板・みんなの広場」のお題では、「あなたが特別に恐れているものはありますか?」というテーマが上がりました。

 

 

このお題に答えるなら、私が1番恐れているのは「死」です。

 

それは、肉体の死も、世界の消滅も、自我の死も、私と思っている私が消えることも(=目覚め)です。

 

 

そんな中、最近のクラスで、参加者の方のシェアを受けて、私は「死を特別視している」と言ったのですが、そこから引っかかりを見ていくと、「死を特別視しているのはまさに私でした」ということに気づきました。

 

 

私は、死を特別視することにより、死を実在のものとして恐れ、

その赦しの実践として、自分が死に直面したときや、病気の苦痛・苦しみに直面した時をイメージして、その時になったら少しでも平気でいようというようなレッスンをしていたことに気づきました。

 

つまり、死は恐ろしくて嫌なものだから、それに対して強くなろう・恐れないようになろうとしていた(=戦っている)ということです。

 

これが、すでに分離を実在のものとした上で、分離にまつわる恐れを実在のものとして、死や病気やそれに伴う苦痛・苦しみを実在のものとしていることになります。

 

 

そうではなくて、

死も病気も、それに伴う恐れも苦痛苦しみも、すべて同じ自分ででっち上げた分離の想念の形象(イメージ)であり、

 

なので、これらは実在していないというところから見る訓練していくのに、自分は全然違うことをしていたなーと気付きました。

 

 

また、

肉体の死や生物の死が「死」なのではなく、

この世界や肉体があると信じていること自体がすでに「死」であり、分離の想念自体が死の想念なので、その投影である世界や肉体や私のすべてが(いいも悪いも関係なく)等しく死(=恐れ)(=死の想念の象徴)なのだということに気づきました。

 

つまり、二つの夢を見ていること自体が、分離は起こったという神と神の子の死の象徴を見ていることなのだと。

 

ですが、

死の想念も、その結果も象徴も、それらすべてが非実在のものなので、死はない=分離はない・世界はない・私はいないということなのかーと気づきました。

 

 

ここには生命はないのだから、生命を脅かすことも脅かされることもないのに、それがあると信じている。

 

死を特別視してつかんでいるのは私でした。

 

 

とはいえ、これは形而上学的なところからの理解であり、

まだまだ分離を実在のものとしているのでまだまだ恐れ続けますが、

すべての考えの結果や動揺も、この死の恐れと直結しているので、

ここに気づけたことはこれからレッスンの助けになります。

 

 

この気づきは、勉強会や掲示板でのみなさんのシェアのおかげです。

 

なぜなら、外側(投影)を使って、自分の自覚していないところや隠された信念を見ていくことができるからです。

 

 

そうしていくことが、聖霊を教師として、この世界を教室として赦しの実践をし、奇跡(訂正)を通して心の自分が学んで、自ら忘れてしまった真の自己(神の子の記憶)を思い出していくことだと言えます。

 

私たちはそんな道を歩んでいます。

 

 

ありがとうございました。

 

 

 

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「ACIM・奇跡講座・奇跡のコース」の学びを通して非二元を生きる

 ACIM MIRACLES「聖霊の教室」