私たちは時間と空間を超え、自我を超え、

聖霊を選び直すことにより、聖霊の思考体系である「橋の向こう側」から自我を見る(=赦し)ことをしていきますが、

 

 

自我と同一化している私たちにとっては

 

橋の向こう側から見る」=聖霊を選び直すということは、(=目覚める、真の自己を思い出すこと)

 

「三途の川を渡るも同じ」ようなものと言えるでしょう。

 

 

(注:聖霊側から見るなら、地獄からの脱出なのですが、正気じゃないので何もわかっていない。)

 

 

それくらい

 

避けたいこと、嫌なこと、恐ろしいことなんだということです。

(例え話としてね)

 

 

だったら、

恐れて当然、抵抗があって当然であり、

神の子の力を使って全力で抵抗してきて当たり前なのです。

 

なので、単に「聖霊を選び直します!」

というような簡単で単純なものではなく、

 

 その無意識の奥には複雑に絡み合った凄まじい抵抗と、「絶対に聖霊を選び直さないぞ」という強い決断があることを自覚して取り消していく必要があります。

 

 

つまり、

コースの大前提である

「世界は夢なんだ幻想なんだ」

「この私はいないんだ」

というところから見ていくこと(=目覚め・赦し)は、

 

それはある意味

 

自我にとっては死刑宣告=死に値するものなんだということです。

 

 

ならば、

あらゆる形やパターンで

抵抗(コースを学ばない、学ばせない、学びたくないということ、歪曲)が起こるのは当たり前だということですし、自分もそうなんだということです。

 

さらにもう一つ深めるなら、

無意識のところで、そもそも目覚めないこと、コースを学ばないままでいること(=天国の対局の死・喪失など)を自分で願望したので、ただそれを体験しているだけということです。

 

 

なので、自我を超えていく(死を超えていく)ということは、

それを変えようとしたり打ち消したりしていくことではなく、

 

それは自分で願望したものが叶っているのであり、

でも、それは間違った願望であり、妄想であって、それを信じていることがが問題であり、本当は、罪人でもなく、肉体でもなく、死もないんだよということ(=贖罪の原理)を受け入れていくことだといえます。

 

 

しかし、それと同時に、

これを理解してくるなら

「これは簡単ではないぞ?」ということもわかってきます。

 

つまり、

生半可な気持ちでは難しい、覚悟のいる厳しい道だということもわかってきます。

 

だから、目的が大切なのです。

 

自分は「何のために学んでいるのか?

という目的を、しっかりと見直すことが大切です。

 

そうでないなら、まだまだこの世界の中での幸せを探し求めていればいいですし、わざわざこんなラディカルで困難な道を選ぶ必要はないからです。

 

 

しかし、それでも意志するなら、そこを超えていくことは可能ですし、その価値は十分あります。

 

そして、これを夢の外から見るなら、本当に「単なる悪夢を見ていただけなんだ。」と微笑んで見ることができます。

 

 

自我を超えていくなら、

そこには全く別の見方、全く別の考え方があり、

そこから見るなら本当にすべてを平安から微笑んでみることができるのです。

 

そして、やがては、「何があっても」です。

(私はまだまだ全然「何があっても」ではありませんが…)

 

 

その時、

すべては起こることが起きていて、

この世界が教室となり、

すべての兄弟は教師となり、

私はその生徒となっていきます。

 

すると、

無駄なものなど何一つなく、

それはすべて自分の目覚めのためにあり、

それをカリキュラム通りに学んでいくなら

幸せな学習者となり、

確実に天国を思い出していくことができるのです。

 

 

そんな道をあなたは歩んでいきたいですか?

 

 

ならば、学んでいきましょう。(by もりGさん)笑

 

ということです。

 

 

 

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