先日の「聖霊の教室」の4月の「ACIM TALK カフェ」で、偶像についてのご質問をいただきました。

 

私もそこで少しコメントさせていただき、その後それについて自身でも考察してみました。

 

 

 偶像とは

 

 

「偶像」とは、小さな狂った考えが映し出された象徴、シンボル、イメージであり、そのすべてが神の代替品であり、神の愛の代替品であるといえます。

 

それはすべて心の自分が勝手に作り出したイメージに過ぎません。

 

なので、それは真理ではないので、すべて偽物だと言えます。

 

つまり、偽物であるならそれは実在していないということです。

 

そして、それは、この世界や肉体のすべてがそうであるということになります。

 

 

しかし、私たちはなんとしてもそれを実在させたくてしょうがありません。

 

なので、その実在しない単なる偶像(イメージや象徴)にパワーを与えて、意味付けして、さも実在するかのように信じています。

 

 

そして、偶像とは単なるイメージや象徴の中でも、特に肉体としてみやすいかと思います。

 

私たちは自分がなんであるかを忘れてしまったので、常に何者かになりたいし、何者かでいたいのです。

 

自分は神の子の心であるのに、自ら本当の自分を忘れてしまったので、

自分がなんなのか?誰なのか?がわからなくなっています。

 

それが非常に怖いのです。。。

 

 

なので、自我の、「私は分離した肉体である」という答えを採用して、自分は肉体だと信じきっています。

 

そして私たちはそれを投影して、個人の肉体としてこの世界の中でずっと、自分は何であるかの答えを外側に探し続け、その証拠として知覚を使って証明し続けています。

 

そうしている限り、真の自己・心を思い出すことはありません。

 

これが自我の目的であり、イメージやシンボルにリアリティーと意味を与え、偶像を使って目をくらませ続けているのです。

 

 

気づけば、私たちは常に外側に偶像置いて、それを崇拝しているし、偶像に対して救いや希望、憧れや未来への幸せを抱きます。

 

そして、それに近づきたい、それになろうとさえしてしまいます。

 

また、反対に偶像を使って攻撃することで自分を満たそうとしたり、恐れや不安を持ち続けます。

 

 

偶像は、まさに自我の存続においてうってつけのアイテムなのです。

 

それは全て夢の登場人物であり、自分ででっちあげたイメージであり、実在していない。

 

なのに、それを信じたくて信じている。

 

 

そこから見るなら、偶像は消えていきます。

 

自分だと思っている個人の自分や、他者の偶像もそこにはありません。

 

全てが心の中の間違ったイメージにしか過ぎなかったとわかるのです。

 

 

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※偶像については、『奇跡講座』テキスト10章Ⅲ .Ⅳ や、テキスト29章Ⅶなどに多く書かれています。

 

 

偶像を作り出すものたちは偶像を崇拝する。偶像は無であるが、偶像を崇拝するものたちは、病んでいる神の子らである。

(奇跡講座T10.Ⅲ.1:7.8)

 

あなたは死ぬためにやってきた。

どの悲しみや苦しみも、偶像が見つかったというメッセージ以外のものを宣言してはいない。

その偶像は生命の戯画化(パロディー)表すものであり、その生命なき状態は本当は死であるのに、実在するものと考えられ、生きた形を与えられている。(奇跡講座T29.Ⅶ.5:1.3)

 

この世界の偶像の全ては内なる真理をあなたに知らせずにおくために作り出された。

平安を期待して偶像を崇拝しても無駄である。いかなる偶像も神に取って代わることはできない。

偶像に頼ってはならない。あなた自身の外を探してはならない。

(奇跡講座T29.Ⅶ.6:1.2.4-6)

 

神に対する恐れは、偶像を失うことへの恐れにすぎない。(奇跡講座T29.Ⅶ.9:6)

 

 

5月の「ACIM TALK カフェ」は5月29日日曜日午前10時〜開催いたします。

 

どうぞお気軽にご参加ください!