スピリチュアルを学んでいたり、霊性の道を歩んでいると、それらの教えはとても神秘的に感じたりします。

 

そして、その流れで、コースの教えや赦しの実践も、神秘的に感じたり、神秘的なままにしておきたいという思いが隠されていることに気づきます。

 

それは、コースを神聖なものとして救いを求めているからと言えるのですが、コースが提示している救いとは、そのような神秘的で、不思議で、曖昧なものではなく、いたって論理的で明確で、極めて実践的なアカデミックな教えであるといえます。

 

 

  ではなぜ神秘的なままにしておきたいのか。。。

 

 

自我は、分離とそれにまつわる苦しみの本当の原因を隠しておきたいからだと言えます。

 

それが明らかになれば、分離を信じることによって勝ち得た個別性・特別性、世界や肉体を保持しておけなくなるからです。

 

 

だから、本当の原因を神秘というベールに隠して曖昧にしたまま、

 

「これをやっていればいつか救われる、これを学んでいればいつか目覚められる。」

 

と信じて、ずっとそのようにやり続けていたいからだといえます。

 

 

そうしていれば、コースに出逢いながらも、答えのないこの世界の中で、漠然とした救いを求め続けることができるからです。

 

探せよ、されど見つけることなかれ (奇跡講座 T-12.Ⅳ.1.4)

 

だから、コース学習者にありがちな、コースを学んでいるつもりで実践しないとか、

実践していても「たまに赦しをすればいいやー」とか、「たまに決断の主体に戻ればいいやー」とかになるわけです。(=ここ、痛いところ。笑)

 

 

つまりそれは、

分離とそれに伴う苦痛・苦しみの責任は自分にはなく、それを回避したまま目覚めよう、救われようとしているということです。

 

ということは、必然的に、

自分には平安を選び直す選択の力はないということになるので、正しい心を選び直すことはなく、永遠に救われることはありません。

 

 

これが

 

自我の策略です。

 

(これを信じている限り、苦しみ続けることになります=代償

 

 

なぜなら、

いつか救われる」という考え自体が、時間の中の自我の考えであり、それは「救われたくない」という隠された願望による時間の引き伸ばし作戦であり、「責任の所在を自分に認めないが故に、決断の主体に戻って選び直すことはない」という自我の防衛だからです。

 

 

なので、

神秘的なものとしている限り、そこに救いはありません。

 

 

自我は、真実(真の原因)を解離の壁で閉ざし、忘却のベールで覆い隠し、神秘的なまま温存しておきたいのです。

 

そうすることで、実在しないものが、まるで実在するかのように見え、嘘を真実として信じ続けることができるからです。

 

 

 

なので、

それを超えていくには、「見る」ことをしなければなりません。

 

見る」=自我を直視することによって、自我が隠しているもの、曖昧にしているものが明らかになっていきます。

 

つまり、自我を聖霊と共に見るなら=ありのままに見るなら、これらは一つも神秘的なものではないということがわかります。

 

それは、はっきりと明確にこれは実在しない夢だとわかるからです。

 

 

しかし、自我はそれをとても恐れているので、

コースの教えを、学びを、真理を、赦しを、実践を、神秘的なまま=曖昧なままにして隠しておきたいのです。

 

 

それをはっきりと見ることによって、あなたがそれを実在のものとしたので、それを見過ごすことはあなたにはできない。

ここにおいて、自我は「神秘」に訴えざるを得なくなり、自分を救うためにあなたは無意味なものを受け入れなければならないと主張する。

多くの者たちが、私の何においてこれを行おうとした。 (奇跡講座 T-9.Ⅳ.4.6:8)

 

 

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