「自我を見る」なら、もう自分で何をやっても無駄だということがわかってくる。

 

そりゃそーだわ。

 

無意識のところで、自分自身を裁いて咎めて、罪悪感を持ち続けておいて、

それでもって、

その罪悪感をこの世界の外側のものでなんとかわからないように、紛らわし続けようとしているのだから、それは決して消えることなどないはずだわー。

 

罪悪感を隠し持っているから、見ないとわからないし、普段は何となく…もやもやとか不調とかでしかわからない。

 

さらに、その無意識の罪悪感に苛まれたくないから、外に投げ捨てて、投影して、外側や誰かのせいでこんなに苦しい、こんなにつらいと言い続けているんだから、本当におかしなことをやり続けているんだということがわかる。

 

 

分離を信じるなら、自分自身の罪を信じているので、自動的に延々と罪悪感を持ち続けることになる。

 

つまり、自分で自分を咎め続けることになるのだから苦しくて当たり前。

 

この苦しみや苦痛はすべて自分で自分を裁いて咎めているからだ。

 

まさに、自分自身を十字架刑にかけているということだ。

 

 

だからこそ、咎めずに見る聖霊が必要なんだ。

 

この十字架刑を別の見方で見ることができる聖霊が。。。

 

それだけが、この自分自身との戦いと裁きの地獄から抜け出す、唯一の救いなのだから。。。

 

 

十字架刑のメッセージは、次の通り、明白である。

愛だけを教えなさい。それがあなたの本性だからである。

十字架刑について、これ以外の解釈をするならあなたはそれをその本来の意図平安への呼びかけとしてではなく、高校を加えるための武器として用いている。(『奇跡講座』テキスト第6章Ⅰ.13.1:2.14.1)

 

 

 

 

◆『奇跡講座』の学びと実践

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