分離を信じたなら、

 

裁きはやめられない。

 

なぜなら、

私たちは罪悪感そのものになってしまっているから。

 

すると、その罪悪感を投影せずにはいられないから、自分を裁く、他者を裁く。

 

咎め続けるしかなくなる。

 

だから地獄なんだ。

 

 

じゃあ、なぜ罪悪感を持つのか?

 

それは、分離を信じるということが、自分自身に罪がある信じることであり、すると、罪悪感を持たずにはいられないから。

 

それを見るなら、ずーっとずーっと咎めている。

私がいるなら、ずーっとずーっと自分自身を咎めている。

 

 

なんかちょっともやもやする気がする。

どうしようもなく気が狂いそうなもやもや。

 

どれもこれも同じだけ、自分自身を裁いている、咎めている。

 

そうして、地獄となった内側を見たくはないので、外側の誰かや何かに投影せずにはいられなくなるのです。

 

 

投影したなら、自分はそれらの被害者となって、私には罪はないという構図が成立できるので、自分は無垢なる顔を装えます。

 

この世界では、もはやそうするしか、自分自身を救う方法がないのです。

 

それが自我の救済であり、同時に、この世界や肉体を実在のものとする自我の目的の達成となるわけです。

 

 

しかし、そこには同時に全く別の救済の手が差し出されています。

 

聖霊とともに咎めずに見ることが、私たちに差し出された地獄からの救済となります。

 

こんなにも咎め続けてきた自分を咎めずに見るとは、全く正反対の見方で見るということです。

 

 

咎めずに見る、裁かずに見る。

 

苦しいから、辛いからなんとかしなきゃ。

これじゃダメだ。もっともっと。

 

と咎めている自分に気づいて、それらを止めて、

 

いいよ、そのままで。それの何が悪いの?

だって自我なんだから当たり前じゃん。

自分で願望したんだから叶ってんじゃん。

と見ていく。

 

咎めずに見るとは、天国から除外した自分自身を包含していくことになる。

 

それが聖霊の見方。

 

そうすると、自分自身を咎めることなく、平安とともに見ることができるようになってくるのでしょう。

 

 

 

 

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