私たちは今、全一性を自ら捨てて、部分となっています。


自分で望んだので、ずっと部分のままでい続けたいのです。


しかし、永遠に全一なるものが部分になどなれるわけがありません。


部分になれたつもりで信じているだけです。


しかし、部分になりきっているので、全一なるものを忘れていますし、思い出すことを恐れています。


全一性へと取り込まれるなら、手に入れたと思っている個別性、特別性=自我が消え去ってしまうからです。


それが自我の抵抗であり、それらを保持することが自我の目的です。


しかし、それが愛の欠如であり、苦しみの原因だということを自覚していません。



なので、赦しを実践していても、ほんの少しでも部分を保っていられるなら、自我はそれで充分なのです。


ほんの少しでも、部分を実在のものとしておけるなら、それは全一ではないからです。


なので、ほんの一欠片でも分離の想念を隠し持っているなら、全一性は不可能ということです。


だからこそ、赦しは全一でなければならないわけです。



なので、それを自覚するなら、すべてを同じとみる普遍性の訓練の重要性がわかってきます。


そのように完全に見れたなら、贖罪をうけいれることになってしまうからです。


そして、そのように見れるようになることを自我は恐れているので、コースを学んでいながらも、決して赦したくはないのです。