この世界で十全に生きながらも、同時に、天国の完璧な非二元的一体性という実相をその生き方に反映させることが可能になっているのです。

JACIMサイト別館・KW連載記事 『奇跡講座』を生きる―その3つの生き方(第1回)はじめに より引用)

 

 

コースを生きるとはまさにこういうことなのかなーと思います。

 

赦しの実践を少しづつでも続けていくと、だんだんそうなっていくんだな〜ということがわかってきます。
 
本当にイエスや聖霊やコースやワプニック博士の言う通りに、そのようになっていくんだな〜とわかってくるのです。
 
だからといって、今すぐそうなるわけでもありませんし、私もそうなっているわけではないのですが、赦しの視点から見るならそうだな〜と思えてくるし、そのように見えてくるのです。
 
そうして、この世界や肉体を教室として、神の国を守るためだけに警戒していくなら、確実にそうなっていくのだろうという階梯の先が見えてきます。
 
 
ならば、なぜもっと実践しようとしないのでしょうか?
 
なぜなら、私たちはまだまだ狂っているので、これこそが唯一の救いであり、真の幸せの道なのだとは、ちゃんとわかっていないからです。
 
今、私たちは自我と同一化しているので、個人の肉体だと思っている自分が自分で、世界は実在すると信じているので、コースの提示するもう一つの見方や考え方(真の自己)を完全に忘れてしまっています。
 
そして、コースを学びながらもそれを絶対に思い出したくはないので、「赦しをするなら全てを失ってしまう」と信じているからです。
 
 
しかし、聖霊を教師として赦しの視点から見ることができたとしても、そこからが真の学びのスタートとなるだけで、実際には何も失わないし、天国に帰れるわけではありません。
 
なぜなら、私たちは間違った心と同一化しているので、その中に居ながら、何があっても正しい心の聖霊とともに、ただ自我を直視していくことを訓練していくだけだからです。
 
でも、そうして練習していくと、少しづつ心が癒されて、恐れが取り消されて、心が開かれていき、徐々に赦すことが楽になってきます。
 
それは、決断の主体である真の自己が学びながら、少しづつ正気に戻っていくことにより、自分は神の子だったと思い出せるようになってくるからです。
 
そうしながら初めて、決断の主体である神の子が真に学ぶこととなり、正気に戻っていくからです。
 
 
つまりは、この世界や肉体を単に幻想だからと否定せず、実在させたところからどちらの目的で見るかによって、赦しの実践をしていくなら、
これらが可能になってきます。
 
それを自覚していくなら、このコースが提示してくれている目覚めへの道が、本当に優れものだとわかってくるのではないでしょうか。